過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いっそのこと遺骨がなければどうなるのだろうか

「遺骨」は厳粛なもの。粗末には扱えない。先祖を大切にする心の中核ですらある。けれども、遺骨をたいせつにするとなると、いろいろ煩いも生まれる。

お墓が必要になる。お寺に建てるのであれば、永代使用料を納める。墓石を注文して、墓を作る。墓参りに行く。墓の掃除も必要。菩提寺とのつきあいが生まれる。山門の修復だの本堂の建設だのと、寄付も依頼されることにもなる。

墓守をだれがするか、ということもある。遠方で墓守ができなくなることもある。近くに移すために墓じまいしようすると、手間がかかる。菩提寺を離れるとき、高額な離檀料を請求されるなどということもきく。

墓がなければ、そんなわずらわしいこともない。そもそも遺骨がなければいい、という考えかたもあろう。

だって遺骨に先祖の魂がやどっているわけではない。遺骨や墓が先祖霊の依代(よりしろ)になったりするのだろうか。

墓に先祖たちがいるのだろうか。死んで霊魂だけになったとして、遺骨にやどったりするのだろうか。遺骨がないから、墓参りに来ないからと、子孫を恨むようなことがあるのだろうか。

いまのような「墓」って必要なんだろうか。墓がなければ、菩提寺とのつきあいも必要ない。子孫に墓守の負担をかけることもない。

ということで、海洋葬や樹木葬など、自然に還るという埋葬方法も選択肢の一つになってきた。墓はいらない。海や山に捨ててもらいたい。遺骨を残したいとは思わない。ましてや、じめじめした墓の土中の骨壷の中に、永年に渡っていたいとは思わない。ぼくはそう思っている。

もしも子孫のほうで遺骨がほしいのであれば、ほんの一握りほどの遺灰を残せばいい。火葬場で遺骨を受けとらないという選択だってある。わずかな遺灰を、手元供養のようなかたちで、家の仏壇やかたんな祭壇に安置する。それだっていいと思う。