過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

押田神父という方

押田成人という方がおられた。ドミニコ会修道司祭で、八ヶ岳の麓の高森草庵で、土を耕しながら、自給自足の暮らしをしておられた。▲もう亡くなられたが、その方の本を読むと、宗派にこだわることなく、ことばが生きている。ほんの一端を紹介したみたい。

坐禅は、坐れば坐るほど、謙遜になる人と一緒に坐って下さい。坐れば坐るほど「わたしは専門家」だという人と、絶対に一緒に座ってはいけませんよ。▲教える世界、意識の世界、そういうものと行が結びついたら、邪道になります。無が行するところがない限り、行は邪道になります。

それでは、どうしたらいいか。何を目標にしたらいいか。▲かくれた謙遜な信仰者に学んで下さい。魚屋のおっちゃんでも誰でもいいんだ。ほんとうに謙遜に信じて、いつも頭を下げている人。その生き方に学んで下さい。▲坐れば坐るほど、ほとけさまのあわれみを人々が感じるようにならならくちゃ、これは行(ぎょう)じゃないんです。──『祈りの姿に無の風が吹く』(地湧社)より

「無が行するところがない限り、行は邪道になる」……ぼくには難しすぎてわからない。が、そうなのかもしれない。そのためには、「かくれた謙遜な信仰者に学べ」と。▲「どうだ、わたしは!」「われこそは」という偉い先生はたくさんいる。行が深まれば深まるほどに、謙遜になっていく、無心になっていく。そういう方と出会うのが、たいせつなこと。