過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

悟ったらどうなるんだろうか

悟ったらどうなるんだろうか。そこがわからない。

ああ、失敗した、ああダメだったというような悟りは、いくつもしたし、これからもたくさんするけれど、本質的な悟りは未だ得たことはない。悟った人、悟ったような人は、たくさん出会ったように思うけれど。

まあ、一言で悟りといっても、いろいろレベルがあるんだろうな。

すごい修行をしたわけじゃないに、エゴがほとんどないような人。人間とは思えないような人。これは神の化身じゃなかろうか、まさに天からやってきたような人。かつてそういう方にもお会いし、同行させてもらったたこともある。生身の身体では、とてもついていけない。

あるいは、このまますすめば、もう神様の領域に踏み込むだろうな。天にいくような人だな。そんな人にもお会いしたことはある。

あるいは、一時的に神とか高級霊例の啓示のようなものを受ける人もいる。とても常人とは思えない、深くて優しい言葉を発する。こちらのことも、かなりお見通し。そういう人にもお会いした。

まあしかし、一緒に暮らしていないと、その本質的なところは、わかってない。こちらで、その人を理想化しているという面はあるとは思うが。外では悟りの姿を示し、内なるところでは実は凡夫そのものという人にも、何人かお会いしたこともある。

ところで、悟りのあらわれとして、どういうことがあるのだろうか。

イライラしたり、やたら怒ったりはしないのだろう。「怒り」というのは、いま・ここにたいする強烈な「イヤ」「不満」から起こるわけで、いまここに満ちていたら、怒りは起きない。我慢もない、イライラも起きない。そう思う。

なか゜おきてもオッケーというありよう。雨が降れば降ったでよい。晴れれば晴れたでよい。何が起きても、それは起こるべくして起きた。起こるべくして起っていることを、そのまま楽しめる境地。それがひとつの悟りの領域かなとも思う。

それは、鈍感、無感動ということでもないだろう。なんでも楽しめることができる。きっと困難なことだって起きるわけで、でも、そのことで落ち込まない、悔やまない。おもしろがってしまえる。楽しんでしまえる。

結果には固執しない。なんだっていいじゃないか、という無執着。思い煩うことがない。後悔もない。あれがほしいこれがほしいもない。

けっきょく「わたし」「自分」というものに対する執着が離れているってことになるのだろうか。「自分」がなければ、怒りも、後悔も、悲しみもないといえようか。

自分というものが強いほどに、身動きができない。あれがいやだ、これがいい。これは嫌だ、あれがいい。これをしたかった、あれをしたかった。それが引きずる。これから起きていく心配、恐れも湧いていくる。そのために、いまがみえない。いまにやすらぎがない。

ぼくなどは悟りには程遠い日々を送っているわけだ。そこを脱するにはどうしたらいいか。日々、探求しているところ。

信仰の道も一つ、神仏に委ねてしまう、おまかせしてしまうのもひとつのあり方。しかし、それができない。そういう神仏にも出会えない。

自らあゆんで、自ら解決していくしかない。ただ、ありがたいことに、いろいろな先人たちの道がある。足跡がある。それを学んでいくことはできる。

また、悟りに近いかも、という人には、ちょいちょいお会いすることはある。さがせば出会う。そういう人の暮らしぶり、人に対する対応、暮らしの簡素ぶり、人生の楽しみかた、遊び方、そこから少しずつ学んでいく。熏習というか、その方の香りが移ってきて、知らずに感化されるということもある。

偉大な人からの偉大な言葉もいいが、子どものふとした言葉からはっと気がつくこともある。ニクたらしい人のグサッと突き刺さる言葉に、ひらくこともある。日々学び、日々発見と。