過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いつでも死んだらリセットできる。だから、いまここをがんばろうということになるか。

宗教とか信仰というものは、大前提として次の3つがあると思う。
①偉大なる存在がある(神とか仏とか諸尊とか。あるいは先祖霊とか)。その教えがある。
②それを信ずる。いわば大いなるものに「おまかせ」すること。
③なんらかの実践、行がある。行とは、拝む、お経を読む、お題目や念仏をとなえる、お参りとか巡礼とかをする。あるいは、善行をほどこす。
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どういう成果、目的が達せられるかというと、ざっくりいうと「おまかせ」の境地が得られる。「おまかせ」しているわけだから、安心して今の暮らし、日常の暮らしに徹することができるともいえる。雨が降ってもいい、風が吹いていもいい。なにがあってもいい。それがひとつの功徳の力といえようか。
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ただ、宗派・宗教によっては、いろいろな味わいの違いがある。
「おまかせ」を切り口に、いろいろな宗教を見てみたい。

親鸞の教えは絶対他力。人は弥陀によってすでに救い取られている。「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。無碍の一道なり」と親鸞は言う(歎異抄
あれこれとはからう必要もない。信仰も修行も必要ない。

真宗では浄土に行くために念仏を称えるのではない。すでに救われているのだから「報恩感謝」の念仏だ。といって、なんにもしないわけではない。安心しておまかせしているのだから、いまここの生き方に徹するという生き方になるのか。

真宗の人は、なんまんだぶ、なまんだぶとめいめいが数篇唱えるだけ。ところが、法然の浄土宗になると、念仏を称えて浄土に往くというニュアンスが強い。ので、そろって木魚を叩いてなーむあーみだーぶ、と称える。それはそれで、ひとつの深い瞑想的な落ち着いた境地に至る実践だ。

キリスト教は、イエスが十字架にかかって死んだのは、神の子としての贖罪、犠牲であった。それによって、原罪を背負った人類は神との和解が成り立ち、人々は救われたと説く。
というのが、キリスト教の教えであるなら、すべての人はみな救われている。信仰も善行の実践も必要ない。パウロは言う。「律法によって人は義とされるのではなく、福音によって、キリストを信じる信仰によって、義と認められる」。それを徹底したのは、宗教改革を行ったドイツのルターであった。そこからプロテスタントがはじまる。

ならば、キリストを信じるものしか救われないのか。そこが、よくわからない。キリストが原罪を背負って十字架にかかったことで、信ずる人も、信じない人もみな天国に生じるというのがキリスト教の教えの中核であろうか。そのあたり、親鸞と通じるものがあると思う。そこ、詳しい人教えてほしい。

日蓮はいわば自力的。南無妙法蓮華経と唱えることによって成仏するという教え。「深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(一生成仏抄:偽書っぽいが)
そして、後の日蓮に仮託した本覚法門では、凡夫は本来無作三身という仏である。自から仏を得ている。「我仏来は自得なり」(御義口伝:偽書)。とはいうものの、信仰も修行も必要ないわけではなく、ひたすら南無妙法蓮華経と唱えることで、仏を自覚するということになるか。

道元は、もっとも自力的な要素が強い。しかし、この「正法眼蔵」を読めば究極の一線に、他力がはたらく。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」 (正法眼蔵、生死の巻)。己の身も心も全てを仏にお預けしてしまう。
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ブッダは言う。「心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす」(ダンマパダ)。しかしそのために、なにかを信ずるという教えではなかったろうと思う。

心を治める道を伝えた。なにかを信ずるとか崇拝するということはなかったろうと思う。その実践法として、心身の気付きの実践の道を示したのではないか。その意味では「宗教」ではないともいえる。

ともあれ、死んだらおしまい。寿命で死のうが事故で死のうが自殺で死のうが、死んだらおしまい。
それは、おしまいなのか新しい始まりなのかわからない。リセットされるのか。しかし、この現世とのかかわりはすべてなくなる。ということで、それは解放といえるわけか。いつでも死んだらリセットできる。だから、いまここをがんばろうということになるか。そのあたりを探求していく。