過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう スッタ・ニパータ

「事実ってなあに?」「曖昧ってなあに?」とあかりが聞いてくる。「辞書をひくといいよ」と教えている。

辞書は枕元、食堂テーブル、居間とあちこちに5冊置いてある。ほとんど図書館のリサイクル本。

でも、あかりは面倒がってなかなか引かない。「おとうちゃん引いてよ」という。結局お父ちゃんが引いて「こういうことだよ」と教える。

「売り飛ばすってなに?」と聞かれれば、さっと引いて「安く売ってしまう」ことだね。「売ってしまうというところに、面倒だから早く処理しようという気持ちが入っているね」と。

「宗教ってなに?」というので、引いてみた。

「神や仏を信じること。神や仏の教え。」(三省堂
「神や仏をしんじることによって、安心したくらしを得ようとする教え」(小学館
信仰とは「神や仏を信じて心から敬うこと」(三省堂)「神や仏を心から信じてうやまうこと」(小学館

なるほど。それで、すこし考えてみた。

①まず、神とか仏がある(いる)ということ。
②そのことを信じること。
③そのことで、安心した暮らしを得ること。

人は安心が得られない。
人生には、病気、争い、貧困、人間関係など、苦しみがある。そして、かならず訪れるのが死の世界。そこで、なにかを信じようという心が起きる。

だが、安心した暮らしがあれば、宗教はいらないともいえる。あるいは、信仰者になると、信ずること自体が安心、幸せ、自然なありようともいえようか。

さて、神とか仏を信じることで、はたして安心が得られるのか。
かえって信ずることで縛られて、得られない場合もある。インチキ宗教もたくさんあるし。
そして、安心が得られるとしても、さてどの神や仏がいいのか。どうやって信じればいいのか。これも難しい。

ぼくの場合は、「縁」と「実践」と「身体感覚」。
とくになにかを選ぶわけではなくても、出会ったものに関わっていく。信じるというよりも、身体的実感で捉えていく。

宗教は外からではわからない。内側からでないとわからない。そして、身体的実感がたいせつ。そのあたりは、探求が楽しい、ほとんど趣味が宗教という感じ。

宗教的な施設の場の雰囲気。信徒たち発するエネルギーフィールド。語られている教えの響き。坐禅とか真言とか祈りの言葉とかお題目と念仏とか、あるいはヴィパッサナーとか、実践してみて、身体感覚で確かめていくってことだ。

これがいいとかよくないとかあるけれど、基本的には「なんだっていい」。それぞれによさがかならずある。そして、同時に問題もある。

なので、出会ったものに縁があるとして、そこから深めていく。それをやってきた人生であった。これからも。

ただ言えることは、一神教的な宗教(たとえば、キリスト教イスラム教、仏教では真宗日蓮正宗とか創価学会)は、体質的に合わない。
多神教的な、ヒンドゥー神道チベット密教などは魅力的だ。
そして、信ずるということのない教え、いまここの生き方に気づいていくというブッダの初期の教えに惹かれる。

「伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。」スッタ・ニパータ1066