過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

拝むことと拝む対象について

宗教は、頭で考えるだけではなくて、身体を使って礼拝し、祈り、唱え、儀式をする。どんな宗教でも、身体的な所作がともなう。▲その必須な要件は、「拝む」こと。その拝みかたは、それぞれだが、今回は拝む対象についてだ。

拝む対象が、なんにもない宗教と、ごちゃごちゃしている宗教がある。▲なんにもない代表は、イスラム教かな。モスクに行くと、まったくどこにも拝むものが置いてない。幾何学模様に飾られた円空ドームの中、メッカの方向だけを示すマークがあるだけ。そのメッカには、なんにもないわけじゃなくて、カーバ神殿があるんだけど。▲ユダヤ教もまったく偶像は置かない。日本の神道も、ほとんどない。御神体は山とか鏡か。先日、訪れた天理教の神殿では、拝む対象は甘露台という台だ。その上には何も無い。なにもないものに向かって360度、ぐるりと礼拝していた。だから、互いに拝みあうかたちになる。それって結構、すごいね。

でも、礼拝するのになんにもないというのは、やはり難しいのかな。▲拝むものがたくさんあるのが、ヒンドゥー教。テンプルに行くと、ごちゃごちゃと神様の像が置かれている。キリスト教プロテスタントは、十字架だけ。イエスの像もない。ものみの塔は、十字架もなかった。ところが、カトリックとなるとマリア像やら聖者の像やら、ごちゃごちゃとしている。とくにスペインの教会などは。▲仏教も、ほんらいは拝むものはなかったろう。ブッダは、なにかに拝めという教えは示していない。自己の心に気づいて、心を清くせよということだ。ところが、やがてブッダが亡くなると、その教えをしのんで、転法輪、菩提樹、仏足石などがブッダの象徴として、拝まれる。やがて仏像があらわれ。菩薩像、天部の像、さらには大日如来だの薬師如来だの、いろいろな仏の像が出てきた。

日本の仏教でも、やたらと像が多いのが天台と真言密教。そして日蓮宗も。いわば「加持祈祷系」の宗派、これは、どうしても像が多くなる。▲こういう苦徳があります、なにに効きますと、いろいろとご利益、効能が出てくるからか。禅宗などわりとスッキリしているイメージだが、曹洞宗は恐山やらとげぬき地蔵やら豊川稲荷など、加持祈祷の寺院も多い。▲仏教には便利な言葉があって「一即多」「多即一」と。たった一つの真理は、無限のものを表し、無限なものはたった一つの真理をあらわしている、と。だから、たくさん仏菩薩がおわしても、それは一つのもの。一つの現れ、と。