過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

やはり仏教とは、「ブッダの教え」であるから

ほんらいの仏教とは、ということを考えている。これ、とても難しい。なにしろ仏教は、二千年以上にわたる歴史があり、インド、中国、朝鮮、日本といろいろな国や民族、言語を経由して、生成発展あるいは停滞、混交あるいは融合してきたのだから。

キリスト教であれば、イエスの言葉が基軸だ。『新約聖書』に集約される。イスラム教は、神の言葉を伝えた『コーラン』にのっとる。ところが仏教は、聖典はひとつじゃない。八万法蔵というほどに膨大な経典があり、数々の偽書もある。そうして、経典ごとに、食い違う考えがある。さらには、論書もある。祖師たちの教えもある。

たとえば、これほど多様なのだ。……生き方を説き、死者の鎮魂や先祖供養を説き、欲から離れることを説き、現世利益を説き。来世を説き、浄土を説き、因果を説き、即身成仏を説き。この世は苦だと説き、苦などないと説き。

諸行無常や無我を説き、常楽我浄と説き。座禅あり、念仏あり、お題目あり、真言あり、加持祈祷あり。釈迦があり、阿弥陀があり、大日如来があり、仏に出会ったら仏を殺せと説き。

こうしてみると、なんでもあり、なんでもオッケーなのが仏教みたいだ。

じゃあ「これが仏教だ」といえば仏教なのか。頭を剃って、衣を着て、お経を読みさえすれば、それが仏教なのか。という疑問が起こる。まあ、それほどの融通無碍さ、包容性、こだわりのなさ、それこそが仏教なのだ、ということもできるけど。やはり、疑問は湧く。

ということで、まずは「仏教とは、この教えが基軸である」ということをみていきたい。座標軸をみていきたい。その座標があれば、いろいろな宗派や思想をみていくとき、座標軸からどう離れているのか、みてとれる。まずは、座標軸を定めてみたい。

そうしたとき、やはり仏教とは、「ブッダの教え」であるから、ブッダ自身がどう教えを伝えていったのか、そこが軸となる。

この場合、ブッダ滅後の数百年後に成立した大乗仏教はかなり眉唾となる。やはり基軸は原始仏教。そして、最古層の経典こそブッダの教えをより忠実に伝えていると思う。

となとると、やはり『ダンマパダ』と『スッタニパータ』という二つの経典が軸になるのではなかろうか。

この論は、「なにが正しいのか」ということを伝えたいためではない。いまの仏教が間違っている、堕落しているということを伝えたいがためではない。まず座標軸をどこに定めたらいいのか、がポイント。