過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

自分で祈ることと、他人に祈ってもらうこと

拝むことについて。自分で祈ったり拝むのはあたりまえで、他人にやっててもらうのは、意味ないじゃんと思う。けれども、多くの宗教では、他人に祈ってもらうことが多い。▲通力のある人、聖職者らしき人にお願いして祈ってもらう。聖職者は、依頼された人の代行として、神仏に取り次いで拝むってことになる。普通人では神仏に祈りは届かないけど、修行を積んだ特殊な人に限って、神仏に祈りが通じる、と。▲でも、祈ってもらうには、やはりお金がかかるよね。代行して祈る人は、難しいお経や呪文、いかにもな儀式作法がともなう。だって、誰にでもできそうなことやっていたんじゃ、ありがたそうにみえないし。

インドを旅したとき、イスラム教徒とよく会話したことがある。かれらは「わしらは聖職者に拝んでもらうことはない。神とはダイレクトにコンタクトしているんだ。そこがヒンドゥー教徒とちがう」と誇らしげに語っていた。▲日本でも既成仏教となると、多くはお坊さんに拝んでもらうかたちが多い。ま、とくに浄土真宗だけは、祈祷は排除しているのでそれがない。ひとり一人が阿弥陀さんの本願にあずかっているということになる。理屈では。

新興宗教となると、だいたい自らが祈り、拝むかたちになるだ。▲神仏に自らが直接、向き合うことができる。自ら祈ることで、きちんと功徳がある。──それを伝えていったのが、新興宗教ということになるか。プロテスタントも、直接も、神に向きあうところに革新性があったんだと思う。カトリックは、神父さんを通して神とつながるという色彩が強かった。▲霊友会立正佼成会創価学会などが戦後にひろまったのは、「自分で、祈れば叶う。自分で供養すれば叶う」というシンプルな自力性が要因かも。

他人に祈ってもらうよりも、自らが祈るほうがいいのはあたりまえ。ちゃんと祈ったり唱えたり礼拝すれば分かるけど、「身体的な実感」はたしかに訪れる。頭で考えて思うことじゃなくて、身体的な実感というのは強い。▲さて、祈ってその願いが叶うかどうか……。それはわからない。叶う確率は祈らないよりも、祈ったったほうが高い。それは体験で分かる。そして、大切なことは、「自分で祈る」「なにがあっても、祈ることで乗り越えられるんだ」──そういう確信があるってこと。そこが、大きな救いなんだとも思う。