過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

瞑想について

このところ瞑想に取り組んでいる。朝は、目が覚めたら布団の上で半跏趺坐スタイルで瞑想。夜は就寝の直前に布団の上で瞑想。そしてそのまま、眠りに入る。▲日中でも、疲れたり混乱するとすると、なるたけ仏壇の前で坐って瞑想に入るようにしている。

坐り方は、腰と背筋をきちっと立てる。背中や腰が丸まっていると、意識が混濁しやすい。かといって緊張しない。天上から糸が頭のてっぺんに結ばれて、吊るされているようなイメージで、わりとゆらゆら。▲はじめは、雑念が次から次へと浮かんでくる。起きてくる考えは追わないで流す。吸う息・吐く息に気づく。鼻から出入りする風の動きに意識をむける。呼吸によって起こる体のふくらみ・縮みに意識を向けていく。すると、やがて雑念も浮かばなくなってくる。▲いつしか、身体感覚が研ぎ澄まされてくる。まるごとぜんたいの体の感覚が。

日常の暮らしでは、頭が肥大化している。「頭が偉くて、体は召使」みたいなイメージ。それが、こうして坐っていると逆転してくるみたい。頭にいっていたエネルギーが、体ぜんたいに充ちていくような感じ。▲こうなってくると、じつに心地よい。じんわりと静かな喜びが訪れる。でも、どこか別の次元に行ったり、夢の世界に入るのではない。いまのこの身体を実感している。確実に、いま・ここにいる。醒めている。

こうして日常の中に瞑想が定着しだすと、頭がごちゃごちゃしなくなるように思う。考えることに支配されないというか。削ぎ落とされて、すこしずつシンプルになっていく。すぐに怒ったり落ち込んだりという反応がしなくなるような。▲まあしかし、そうはいっても、ぼくはなかなか上達しない。だが、こうした瞑想が確実に深化していくと、なんにも要らない。なんにもする必要がない。そのままで、ありがたいって感じられるようになるんだと思う。日々、すこしだが、そのきざしの瞬間は訪れることがある。