テラスで布団を干して日向ぼこ。あかりとヨーガのレッスン。ひとつ教えると「はい次は」と言ってくる。また教えると「はい次は」。なにしろ子供だから、180度の開脚などゆるゆる。おとうちゃんはガチガチ。
成長していくとともに、いろいろ耐え忍び、なにくそ負けるもんか、みたいな心が育つ。とともに、筋肉が硬直していわば鎧みたいになっていく。それとともに心もこわばるわけだ。
ヨーガで身体を伸ばして柔軟になることは、心を柔軟にすることにつながる。……のではないかと、おもっているんだけど。
コーヒーの生豆を焙煎して毎日飲み続けて25年間。生豆が切れたところで、ふとひらめいて、コーヒーから薬草茶に切り替えてみた。
薬草というのは、ヨモギとドクダミ。乾燥した葉っぱを水の入った鍋に入れ、種火で50分間ほど煎じる。それを濾して飲む。
見た目は、真っ黒でまるでコーヒー。味も苦い。まあ、そこそこおいしい。
この春に、たくさんのドクダミとヨモギを採取しては室内干していた。ヨモギは揉んでモグサにしてお灸にしようとしたが、独特な臭いが残るので、施設内では使えず。オープンテラスで使うことにした。
ヨモギもドクダミも、浄血、解毒に効きそうな予感。体質改善にいいかもしれない。ただ即効性はないので、飽きずにまずは100日間。
ちなみに、義父は玉ねぎの皮を干して煎じたものを一年間呑み続けたらハゲた頭に黒い毛が生えてきたという。
面倒なことを楽しくやるにはどうしたものか。
①とにかく、手をつける以外にない。「やるしかない」と覚悟する。
②いきなり全部やろうとすると気が滅入るので、仕事を細かくブレイクダウンして書きだす。
③書き出したもの一つひとつをみれば、難しくはない。片手間にできる。すこしやる気が出てくる。
④ほんのすこしでも手を付ける。一つ一つをこなしていく。
⑤こなすことで、満足が得られる。すこし楽しくなってくる。「やったぞ」という気になる。
⑥「はい、ひとつ完了」とし嬉しい。そこからまた進む。慣性の法則。そうやって進めば、いつかすべて完了する気がしてくる。
⑦そして、かならず完了する。
⑧達成感が増す。自信が増す。
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ということで、じつに手間のかかる仕事をしている本日。
建物の保存登記と所有権移転登記の申請書を書いているのだ。司法書士を使えば簡単だが、お金がかかるので自分でやる。
法務局の相談窓口にいけば教えてくれるが、予約が必要だし、なにしろ往復100キロ。時間がない。ネットで調べて電話と郵送で済ます。
申請書の書き方はわかった。しかし、細かいことがわからない。
たとえば、登録免許税はいくらなのか。なにか軽減措置があるのか。
建物の評価額を知らなくちゃいけない。
名義人でないと教えてくれない。名義人に委任状を送付して送りり返してもらい、役所に行って課税台帳登録証明書を発行してもらう。
登録免許税の金額を計算する。
その納付はどうするのか。収入印紙でいいのか、金融機関の領収書でいいのか。どこに貼るのか。印紙でオッケーなら、別紙に貼るのか。その際には、別紙を綴って袋とじにして係印を押すのか。10万円以上の収入印紙が、こんな山里の郵便局にあるのか。
登記事項証明書(謄抄本)は、登記したら送ってくれるのか。別に申請書を書いて、これまた収入印紙を貼って、返信用封筒を入れなくちゃいけないのか。こういうのは、また法務局に電話で聞く。
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こういう仕事はちっとも楽しくない。創造性というものがまったくない。ロジックでどうのではなくて、そうなっているからそうするのだという世界。とにかく、現実に直面するしかない。でもまあ、なんとか完了しそう。
こういう面倒なことをやるのは面倒。だけど、こうやって頭を整理しながら書くのは、面倒ではないので。
創価学会は公称1千万人。聖教新聞(日刊の機関紙)の発行部数公称550万部。過去の選挙で公明党の得票数は、900万票近くもとった。
この20数年にわたって政権与党にいて大臣を出している。会員は、数が多いだけではない。あらゆる分野に人材がいる。政治、実業、官僚、司法、マスコミ、教育、芸術など。
外からでは、組織の実体、実情はわからない。なかなか本音のところは聞けない。こないだ創価学会の友人が訪ねてきたので、聞いてみた。
かれは創価学会の元支部長。組織の最前線にいた。うけもっていた会員は80世帯ほど。以下は、彼から聞いた話。
①創価学会は信仰の団体。しかし、いまや中核は信仰ではなくて「活動」になっている。そこには、ほんとうの喜びはない。組織活動は消耗でしかない。
②会員の活動のメインは、公明党への「票をとる」(F=Friend活動)ことだ。会員は集票マシーンだ。
ある地区の選挙が、当落線上ということになれば(積み重ねた数値データでかなり正確に割り出せる)、全国各地から激戦区に応援に入る(全国交流という)。友人の友人を頼って、訪ねて投票を依頼する。
③選挙活動のないときは、聖教新聞の購読依頼(新聞啓蒙という)だ。選挙になれば、公明党に投票してくれる友人づくり。すべてがそこにいく。それらはみんな会員の自費、手弁当。公明党も創価学会も人件費はかからない。
④草創期の創価学会は、病気が治った、家庭不和が解決した、貧困から脱出したというような、感激の信仰体験をよく聞いた。いまはほとんど聞かない。
会員は、ノルマのように競わされて、選挙活動の票取り。そして年に一度の寄付を求められる(「財務」という)。寄付金額は3桁(100万〜999万円)レベルの人もいる。
⑤日蓮正宗富士大石寺から破門され(30年前)、いまや教学(日蓮仏法の研鑽)の息吹はほとんどなし。かつては、大石寺にある板曼荼羅こそが真実と言っていたが、もうそんな話は全く出ない。
⑥会員を根底から支えている当体は、池田大作名誉会長である。しかし、この10年というもの、会員の前にまったく姿を現さない。生きているのか死んでいるのか、植物人間状態なのか、わからない。
名誉会長のメッセージが、よく聖教新聞に出るが、ほとんど組織の官僚たちが作ったもの。名誉会長滅後の創価学会は、かなり求心力が落ちていく。
⑦しかし、なにしろ公称一千万人もいる。情報交換、人脈作り、政権与党のつながりも含めて、メリットはある。多くの人は、信仰的な喜びはなくとも、世俗的なつながりで会員でありつづけると思う。
⑧聖教新聞社、創価学会本部の職員たちは、かなりの高給取り。それこそ年収一千万円レベルがたくさんいる。
会員の組織活動と寄付、聖教新聞の拡大などの活動は、それら創価官僚たちを支えるものとなっている。優雅な創価貴族、それを支える会員たちという構図。
⑨いまやコロナ禍もあって会合も減り(以前は、毎日のように会合と報告)、だんだん弱体化してきている。会員が孤絶化してきている。なにより池田大作に替わる指導者がいないので、熱が失われてきている。
⑩自分は組織活動はもうしない。しかし、信仰はする。南無妙法蓮華経と唱えて祈ること。そこに立脚して自由な友人たちと交流していく。
あかりが描くのは、ゆるきゃらでマネできない(1枚目、2枚目)。おとうちゃんの描くのは、作為があってちっともいいとは思えない(3枚目、4枚目)。
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トランプとか、かくれんぼとか、ボール投げは疲れる。おとうちゃんは、あんまりおもしろくない。それで、絵をかこうかということになる。
ふたりで新しいキャラを描いては名前をつけていく。「ふわふわぽこりん」「きらきらりんりん」「ごちゃごちゃぺっぺ」のような感じだ。
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描きながら物語があらわれてくる。
──おおかみのお母さんがやってきました。獲物を狙っているね。そうすると、ふわふわぽこりんが登場。そこに雨が降りました。洪水になって流されてしまいました。海になりました。島にたどり着きました。島ではライオンが出てきました。こわーい。逃げようとしたら、キリンさんがやってきて助けてくれました。
こんな感じで2歳のころから一緒に描いてきた。こうした遊びは、これからどうなっていくやら。
あれ?どうしたんだろう、動かない。
こういう姿勢でじっとしていた。おかあちゃんに叱られて落ち込んでいたのだ。
声をかけた。もっと落ち込んでみて。もっと。もっと。と、やっているうちに、ガバッと起き上がってなんども落ち込みシーンを再現してくれた。
子どもは、落ち込み、泣き、怒り、笑う、喜ぶ。思い切り。
そして、瞬時に変化していく。感情を引きづらないようだ。おとうちゃんは、それを学ばねば。
友人が来訪。焼却炉に薪をくべて暖を取りながら立ち話。炎が出て鉄が赤くなっていく。あかりは「怖い」と言いながらも「あったかい」と、炎のそばにいた。空には三日月が浮かんでた。
いまほとんどのお寺は、お坊さんたち家族の暮らしの場、住まいとなっている。住職は子息が継ぐのが当たり前。代々、世襲の構造だ。
そうなると、お寺はその家族の所有物、資産のような感覚となる。
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ひとり娘だと寺の継承が心配。婿がこないで住職が亡くなれば、寺族はそこに住めなくなってしまう。そこで、婿とりが切実な課題となる。そういう背景から、在家から出家し、婿として大寺院の跡取りとなった友人もいる。
また夫である住職が亡くなる。息子たちはまだ幼い、そうなるとたいへん。やはり寺を出なくちゃいけない。それで、奥さんが尼さんとなって、寺を維持したという話も聞いた(これは、ポール牧さんのお母さんのケース)。
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宗教法人は固定資産税もお不施も「非課税」。県民税。市民税も取られない。それは、公益性(みんなの役に立っている)ということが根拠。
もちろん、檀家に支えられているので、檀家のための法要や墓の管理という役目は大きい。しかしそれは、みんなの役に立っているといえるのだろうか。
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本来なら、僧侶はお寺には住まないで、寺とは別のところに居を構えて、お寺に通うのがいいと思う。
友人の僧侶は、そのようにしていた。でないと、みんなのお寺とはなりにくいから、ということであった。
そうして、彼は自殺防止ネットワークということをはじめて、自殺したい人の相談に応じるという仕事をしていたのだった。
こうしたい、ああしたい。あれを達成したらこうする。ああする。
ぼくには、そういう夢を語る時期があった。が、いまは夢をあんまり語らない。年をとったせいもある。夢を実現しようとか、目標を達成しよう努力すると、どうも疲れるようだ。
なにしろ現実がたくさん押し寄せてくる。次々と。押し寄せる現実という波を乗り越えたり、飲み込まれたりの日々。
夢よりも現実。現実とのダンス。オーバー・ザ・レインボーよりも、現実直面。逃げられない現実に直面するしかない。直面することしか、現実は変えられないようだ。
そのことが「おもしろい」。そう思うことにしている。
現実と直面する中に、可能性のヒント、達成への鍵、未来への道、がある。
いかに、平凡な日常から、物語を紡ぎ出すか。レジェンドをつくるか。創作のエネルギーを涌き立たすか。
ランの小屋の屋根を大きくしたものの、殺風景だったので、流木や松ぼっくり置き場としてみた。