【⑥身延大乗結社】2025.10.23
関戸師がこのような道を歩むきっかけとなった経緯について、かいつまんで述べる。
夫の死、孤独、社会的な居場所の喪失——その極限の喪失体験の中で、「神仏の声」を聞くという出来事が起点になる。
孤独、祈り、献身、そして開眼。女性の霊的覚醒から修行者としての確立に至るまでの道程ということになる。
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関戸師には実子がいなかったため、養女を迎えていた。その養女が嫁いだ先で夫を脳溢血で失った。関戸師が40歳のときである。
頼りにしていた夫を亡くし、嫁ぎ先には血の繋がった子がいない。養女とその嫁の立場は、さぞ居心地の悪いものであっただろう。
そんな関戸師に、あるとき神仏の霊言が降り、さらには日蓮聖人のお声が届く。以来、我を忘れるほどに神仏の導きに従い、歩みを続けてきたのである。
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関戸師は毎日、仏壇に手を合わせて夫の冥福を祈るとともに、こう祈り続けていた。
「選挙違反で大量の逮捕者が出て荒廃した秋山村を、平和な村にしてください。護良親王の首を持って逃げられた雛鶴姫が命を絶ったこの地です。どうか、その神社が再建されますように。どうかお力をお貸しください」
ある日、仏壇の前で祈っていると、亡き夫の霊が現れ、「信仰しなさい」と言った。
「一所懸命に信仰に励みます」と関戸師が約束すると、夫の霊はすっと消えていった。
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またあるとき、心に染み入るような澄んだ声が聞こえてきた。
「私は木花開耶姫、神の使者である。お前が一所懸命に信仰する気持ちが嬉しいから、願いを叶えてやる。これからも一所懸命に信仰しなさい」
はっきりとした声が三度聞こえ、ありがたさに身の震える思いで、関戸師は思わず「私の命は、どのようにでもお使いください」と答えた。
昭和32年12月3日のことであった。
さらに別のとき、突然、気の遠くなるような神々しさに包まれる体験をした。
「私は天照大神。今の世は、神も仏もないという者が多い。皆に、神も仏もあるということを知らせなさい」
その声を聞いた関戸師は、あまりのありがたさに再び身の震える思いで、「私の命はいりません。どうか、私をどのようにでもお使いください」と誓った。
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翌・昭和33年1月20日、いつものようにお経をあげていると、突然「日蓮じゃ」という凛とした声が聞こえた。
関戸師は訳がわからず、ただ恐れ多い気持ちで「お許しください。この命は、木花開耶姫さまに差し上げております」と必死に申し上げた。
しかし、その声はなおも「日蓮じゃ」と厳しく響く。
「この命は、木花開耶姫さまに差し上げておりますが、『法華経』の教えを生きてまいります」
関戸師がそう申し上げると、日蓮聖人は「それでよろしい」と言われた。
「私のような者に、どうして神が現れ、日蓮聖人のような方が声をかけられたのか、わかりようもありませんでした。ただ、神仏が『信仰の道を生き、人のために役に立ちなさい』と示されているのだと感じたのです」
以来、理由はわからぬまま、教えを求める旅が始まった。
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「信仰の道を生き、人のために役に立つ」といっても、何をどうすればよいのかまったく見当がつかない。
年齢もすでに45歳。今から未知の世界に飛び込んで、信仰を貫けるかどうかもわからない。
「不安ばかりでした。でも、日蓮聖人のお声の荘厳さを感じるにつけ、信仰一筋に生きていこうと思いました」
これを機に、関戸師の身辺には次々と不思議なことが起こるようになった。ある種の霊的な力が身についてきたのである。
現世の肉体が無になり、神仏の使いとして働かせていただく道を歩み始めたのだろうか。
しかし、関戸師にはまだ「本当に神さまがおられる」という確信がなかった。そこで「もし神さまが本当においでなら、お声だけでなく、お姿を見せてください」と願った。
9月のあるよく晴れた明け方、東の空に三柱の神さまがぱっと現れた。昭和35年9月4日のことである。
「真ん中が女の神さまでした。目もくらむような神々しさに、はっと思った瞬間にお姿は消えました。これで『確かに神さまがおられる』という確信を得ました。そのときから、信仰一筋に生きてゆく決心がついたのです」
亡き夫の霊験、日蓮の霊験、木花開耶姫、七面天女の霊視。ここで感じるのは、関戸師の信仰が特定宗派に属すものではなく、日本の土着信仰の深層に根ざしているということだ。
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導いてくれる者は誰一人おらず、生活のあてもない。
五里霧中、孤独と不安の中での出発であった。
しかし関戸師の決心は固かった。「もう家には帰らない、財産も必要ない」と、財産のすべてを義弟に譲り、何一つ持たずに家を出た。
針仕事で少しずつ生活費を稼ぎながら、東京の「心霊研究同好会」(現・心霊科学協会)に通うことになった。
一人娘には何一つ買ってやれず、何もしてやれない。親として情けなく、つらい日々であった。
「私は泣きながら、娘に『本当にすまない』と詫びました。娘は『お母さんはいま、東京で学んでこなければならないのだからいいのよ。私だって裸で暮らしている訳じゃないもの。皆さまから、お仕事をさせていただいてお金をもらっているのだから、気にしないで。続けられるうちは、通ってください』と励ましてくれました」
「心霊研究同好会」では、霊能力者の吉田綾先生から心霊的なことを学んだ。吉田先生は関戸師にこう言った。
「あなたは霊感があるし、とても強い守護霊がついておりますよ。あなたは素直で、神仏のお使いをしようと思っています。今は、いつ板を踏み外して水に落ちてしまうか、というところで苦しんでいます。でもそこを抜け出せば、男でもできないことを成し遂げる人ですよ」
こうして一年間、「心霊研究同好会」に通い続けた。
やがて娘が嫁ぐことになり、それを機に「仏教の修行をさせていただくには、日蓮聖人の修行された身延山に行くしかない」と考え、本格的に修行することを決意した。
身延山は、日蓮聖人が晩年の9年間を過ごした地である。佐渡に流罪された日蓮聖人は、赦免されて身延の山中に庵を結び、弟子の育成に当たられた。今は、日蓮宗の総本山として久遠寺が建てられている。
「身延山で修行させてもらえるのか、どうやって暮らしていけるのか、まったくわかりませんでした。とにかく、日蓮聖人のことを学ぶには身延山に行くしかないと思ったのです」
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昭和37年1月27日、関戸師はたった一人で身延山に向かった。
所持金は二千円のみ。波木井の知人宅に着くと、その夜中に一人で身延山の日蓮聖人ご廟所へ、一時間かけてお参りに行った。
凍てつく深夜の山中である。ご廟所の前で、しんしんとお題目を唱え続け、「日蓮聖人さま、なんとしてもこの身延山で修行させてください」と祈った。
翌1月30日、夜明けとともに奥の院を目指して登った。準備らしい準備はなく、履き物は下駄だけ。久遠寺から標高差約760メートル、東側の尾根伝いに50丁の道のりである。2丁登っては休み、3丁登っては休み、ようやく3時間あまりかけて登り、思親閣に到着したのは正午になっていた。思親閣とは、日蓮聖人が山頂からはるか故郷の房州を望み、ご両親を偲んで報恩のご回向を捧げたところから、その名が付けられている。
本堂で御開扉を拝受した関戸師は必死に祈った。
「私は自分のために信仰に入ったのではございません。村の平和のために、世の中のお役に立ちたいがためです。どうぞ、私に修行の場を与えてください」
「実母と姑、二人の母を捨てて何もかも捨てて来たのに、修行の場も見つからず、今さら村にも帰れません。先のことを思うと、涙があふれて止まりませんでした」
二人のお上人にこれまでの一部始終を話し、「こちらで是非とも修行させてください」とお願いした。すると、思親閣の別当・疋田上人に会うことができた。
関戸師の固い志を感じた疋田上人は、それまで女性を受け入れたことのない思親閣に、修行のために特別に滞在することを許したのである。
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「私にできることは、お給仕ぐらいしかありません。それだけでも一所懸命にやらせていただこうと思いましたが、それさえなかなか思うようにいきませんでした。
山の上に運ばれてくる限られた材料で精進料理を工夫するのは、田舎の主婦でしかなかった私には、とても大変なことでした。やがて裏に畑を作ってとれた野菜を漬け物にするなど、少しずつ工夫できるようになっていきました」
標高1,000メートル余りの山での生活は、相当に厳しいものであった。
あるときは、寒さで水道管が凍結破裂して断水となり、2週間もの間、氷を溶かして料理に用いたこともあった。
「心だに まことの道に叶いなば
祈らずとても 神は守らん」
この歌は、関戸師が修行中に教わったもので、何かにつけて口ずさみ、自らを励ましていった。
思親閣には毎日、全国から多くの信徒が参拝に訪れた。関戸師はそうした信徒の給仕をさせてもらいながら、疋田上人から修行の基本を学んでいった。
思親閣から眺める夕焼けの富士山は格別であった。夕焼けが山々に反射して辺りが薄紅色に包まれ、杉木立が黒く浮き出る姿は、神々しいまでの美しさだった。
「ある月夜の晩、お参りしようと外に出たとき、私ははっとしました。今のここでの修行は、不安と孤独で死ぬことさえ考えていた私に、神仏がずっと以前から用意して下さっていたことなのだ──。そのとき初めて、気づいたのでした」
以来、関戸師は七面天女のお姿を霊視もした。
七面山から真東には、身延山をはさんで霊峰富士山が見える。
お彼岸の中日には、太陽が富士山頂から昇り、七面山本社の本殿奥深くにいらっしゃる七面大明神のご神体に向けて、光の束が放たれる。
「霊峰富士の御神体は、私が命を捧げた木花開耶姫さま。そして、七面山の御神体は思親閣でお姿を見せていただいた七面天女さまです。霊峰富士から七面天女さまが、東西から身延山を守護しているように感じられました」
関戸師は、もはや外からの霊的な声を聞くのではなく、「光を見る」存在になっている。つまり、信仰が外から与えられるものから、内から立ち上がるものへと変容した瞬間のように思う。
(続く)
※「私の精神史・宗教史」の執筆のためのペースメーカーとして連載しています。私が体験したこと、出会った人たちを中心に描いています。