【③身延大乗結社】2025.10.22
供養の方法は、関戸師が自分で考えるのではなく、お経を唱えているときに、霊界からの声として導き出されるのだという。
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関戸久妙師の指導の具体的な方法は、以下のようなものである。信仰の現場のリアリティとしての事例をいくつか紹介する。
ある人が家族のことで悩んで相談に訪れる。
関戸師は「ではご祈祷しましょう」と言い、お経とお題目を唱える。とても力強いお題目の声だ。
「これが本当のご祈祷の響きなんだ。素晴らしい……」と相談者は感じ入ったという。
関戸師にこれまでの経緯を話すと、嫁ぎ先の家の深い因縁が語られる。
「お米と塩を神さまに捧げ、毎日お詫びしなさい。そして、捧げたものを屋敷内にまきなさい。それを二十一日間やってごらんなさい。」
その通りに実行すると、二十一日目に悩みが解決したという。
またある人は「おむすび供養」を指導された。
「おむすび供養」とは、毎日十一個のおむすびを作り、十一日間、近くの川に流すという施餓鬼供養である。
川に流す際には「誰にも見つからないように、誰とも口をきかずに行わなければならない」という。
またある人が相談に訪れ、関戸師と一緒にお題目を唱えていると、突然、関戸師の口を通して「渡部」という先祖の名前が出てきた。
「渡部」と言われても、相談者にも関戸師にも誰のことかわからない。
「どこの渡部さんですか」と尋ねると、関戸師の口を通して「桶屋の渡部と申します」と答えた。
「ああ、桶屋の渡部さんか」と、相談者はようやく思い出した。そして、その先祖の供養を行うと、悩みが解決に向かった。
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塩や米を供える、おむすびを流すといった具体的な行為は、一見すると民間信仰的な習俗のようだが、そこには「祈りとは、かたちを通じて心を働かせることだ」という生きた実践法が感じられる。
それぞれの行法に「期日」「数」「沈黙」「秘密性」などの条件が添えられている。これらは単なる呪的操作ではなく、信仰者の心を集中させ、“世間”と“聖なる領域”を峻別する装置となる。
その行為を通して心を整え、集中させ、日常(世間)と非日常(聖なる領域)を区切ることになる。
供養を通して人が「内面の静謐」や「祈りの深層」に入っていくわけだ。
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関戸師は言う。
「成仏できずに苦しんでいる霊にとって、自分のことを思ってくれることが最高の供養になります。
供養されることで、恨みや憎しみ、孤独感がようやく解け、初めて安らかな場所にたどり着けるのです。これまで誰にも知られず無念な思いを抱えていた霊が、ようやく気づいてくれる人が現れたことで、安心して喜ぶのです。
亡くなった人にとって、自分のことを思ってくれることが最高の供養になるのです。亡き魂は、『霊界での苦しみをわかってほしい。きちんと供養して助けてほしい』と願っています。
その根本に気づかないと、何をやってもうまくいきません。きちんと供養して差し上げれば、霊界での苦しみから解放され、今度は守護の働きとなって子孫を助ける存在になるのです。
供養はお坊さんにお経を唱えてもらうだけでは十分ではありません。葬儀を盛大に行ったり、戒名にお金をかけたり、立派なお墓を作るのも良いでしょう。しかし、そこに故人への『供養の心』がなければ、遺族の自己満足にすぎません。
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本当の故人の成仏につながるのは、「遺族の心からの祈り」です。
供養とは、「こうしてあげれば故人は喜ぶのではないか、安心するのではないか」と考え、一つでも実行していくことです。
故人がやり残したことがあれば代わりにして差し上げる、お供えするなら故人が生前好きだったものを供える、といったことです。「安心してほしい、喜んでほしい」という心からの気持ちが大切です。気づいたことから、一つでも実行してみてください。
また、遺族の方々には、故人についてのさまざまな思い出があるでしょう。皆さんが故人を思い出すとき、故人も皆さんのことを思っています。
故人を思い出すとき、故人は皆さんと共にあるのです。
「思い出す・偲ぶ」ことが、故人に対する最も大切な供養です。その上で、心の中で「どうぞ安らかに成仏してください」と念じてください。その心は必ず故人に通じます。」
形や制度に依らない“宗教の生きたかたち”が息づいていると思われる。
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「故人を思い出すとき、故人もあなたを思っている」というのは、供養を超えて“死者と生者の対話”であり、死を分断ではなく「共にある関係性」として捉えているわけだ。
宗教を“奇跡や霊的現象”としてではなく、“人と死者の関係を癒す人間学”として実践されてきたと思われた。
これは「供養」とは何か、「死者」とどう向き合うかという、人間の根源的な問いに対して、ひとつの清冽で力強い答えともいえる。
(続く)
※「わたしの精神史・宗教史」の出版に向けての原稿執筆のペースメーカーとして投稿しています。時系列など無視して、「そういえばこんなことあったなあ」というひらめきから書いています。