過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(53)鬼籍に入られた人 板橋興宗禅師、宮崎奕保禅師

スマナサーラものがたり(53)鬼籍に入られた人 板橋興宗禅師、宮崎奕保禅師

曹洞宗板橋興宗禅師にお会いして、対談もしました。元曹洞宗の館長さんで総本山の総持寺の住職をされた方です。猫をたくさん飼っているお寺(御誕生寺)でした。

とてもスマートで何のこともなく心から尊敬できる人でした。一見、とぼけたような柔和な笑顔、ふんわりした感じでした。道に則って自分の仕事をする方でした。誰に当たったりもしない。教える時はさりげなく、見事に教える。あれは私の勉強になりましたね。
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曹洞宗で直接会ってみたかったのは永平寺の山主の宮崎奕保(みやざきえきほ 曹洞宗大本山永平寺第78世貫首 104歳で没)さんでしたね。それは実現しませんでした。

NHKのテレビを見て、おどろいたんです。ものの見事に真理を語っているんですね。
この方にはもう自己がない。だから、言葉はとてもシンプルでわかりやすい。日本にそういう方がおられたんですね。
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道元は『正法眼蔵』で「自己をならうとは、自己をわするるなり」と述べています。
自己をならったところで、「自己は成り立たない」と発見するんです。
自己をならったら、自分が楽になった。そこでおわりかというと、まだあるのです。

自分が楽になった。自分の身心が脱落した。
しかし、まだそこに「自分」がいる。

自分がいるから、その分、楽じゃないんです。
自己をならっていくと、「え? 自分というのは幻覚なんだ。じつは自分とは何もないんだ」とわかる。

忘れるということは、自分が消えた、なくなってしまった。
消えるのは、「自己」「自分という気持ち」です。しかし、体も心もあります。
「自己」というものは、いったいなんでしょうか。
「自己」「自分という気持ち」が体と心をまとめているんです。
その「自己」がなくなってしまう。消えてしまうんです。
「自己をわするるなり」とは、その解脱の境地を語っているのです。

「自己」がない人の言葉はとてもシンプルで明晰、直截的でわかりやすいんです。

スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。