過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり㊽鬼籍に入られた人 森田さん、松井美文さん

スマナサーラものがたり㊽鬼籍に入られた人 森田さん、松井美文さん

森田さんは、目白時代から関わっていて瞑想会の司会などをしてました。
いろいろ一緒に作業したりしましたね。何かとても友だちにしてもいいという人格でしたね。彼はいろいろな人と友だちになってしまうんですね。

協会としてのいろいろな作業を私と二人で、よくやっていました。彼自身は、そのことを楽しみにやっていたんですね。

人格的にはとても立派な方でした。子どもたちが来ると必ず森田さんのほうに群がっちゃうんですね。すごく経験のあるお父さんという感じの方でした。
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松井美文(よしふみ)さんは、テーラワーダ仏教協会の会長をされていました。鈴木一生さんの後を継いで会長になりました。彼は美術の先生でしたね。

松井さんは、会長になってからものすごく真剣に頑張ったんですね。
どうすればうまくいくのか、ということに必死でした。
会長だからいい成績を上げなくちゃというような気持ちではありません。

ただ、私が仏教を伝えることに対して、どうやってサポートしたらいいかとつねに考えていました。無我の精神で力を発揮してくれたんですね。
あの方は私が何をやって何をやらないのか、はっきり知っているんです。
そこはやっぱり社長なんですね。でもとくに構えてやるようなことはしませんでした。
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私はといえば、仕事を選んで自分がやることはやる、やらないことは無関心。
勝手に誰かやってください、というところがあります。彼はそのことをよく知っていました。

私が管理監督しない分野では、すごくしっかりやってくれたんですね。だから、私はずいぶん安心しましたよ。

私が暮らしていた家にしょっちゅう来て色々相談したりね。ややこしい問題が起きるとどんな態度をとったらいいのかと。協会の会長として、仕事のようにするというのではなくて、仏教そのものを、自分で精神的にやるものは得ていたんですね。

本人もやるべきことは全てやって終わったという充実感と安心感。それで亡くなるんですね。
とても親しく、それは出家と在家の信者さんのようなプライベートな感じでした。精神的にはとても優れている方だなあということは、じわじわと感じていたんですね。
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最初は病気だと誰にも言えなかったんですね。最終的にはもう体が動かないというところに来て、みんなにも「もう人生は終了します」と言いました。

私の家に来て「私はこれでもう終了します」と報告がありました。そして、後継者として次の協会の代表にと、柳さんを選んでいきました。

私に最後に頼んだのは「仏弟子としての名前がほしい」と、たったそれだけなんですね。

「死ぬときには、仏法僧から頂いた名前で逝きたい」と。日本ではそういうシステムじゃないんだけれどもね。

とても立派な人だから、仏弟子としての名前はしっかりと作って「ウェーサカ祭りのときに、サンガの認定式をやって名前を差し上げましょう」と言いました。けれども、次第に体が悪くなって来れなくなってしまいました。
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「なんとかして来てください。たったの10分だけでも。我々の儀式のプログラムはどう進行していても、あなたが来たらすぐにあなたのプログラムに入りますよ。あなたを拘束することは何もなく、自由にしてウェーサカ祭りをやります」と伝えました。

ウェーサカ祭りの最中に、松井さんが来たら松井さんの命名式をやりたかったんです。でも体がいうことを利かず、来れなかったんですね。残念だったと思います。

それでも、別の日になんとか私の家に最後の挨拶に来たとき、名前を差し上げました。私としてはサンガとして命名式をやりたかったので、心残りではありました。

スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。