過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり㊼鬼籍に入られた人 鈴木一生さん

鈴木一生(すずき・いっせい)さんは、テーラワーダ協会(いまのテーラワーダ仏教協会のおおもと)をゼロから立ち上げた人です。初期の協会活動にいろいろと貢献されました。

はじめの頃は、浅草の仏法学舎というところで、『法華経』を金田道跡師(かねだ・どうしゃく)から学んでいたんですね。

その勉強会に私が竹田倫子さんに連れられていった時に、初めて会いました。そこで、『法華経』よりもテーラワーダ仏教がすごいのではと感じたようです。それからの縁ですね。
 ▽
一生さんは、社長育ちなんですね。本人には経営以外、細かい緻密なことはできない。きめ細かく内容に入ろうと思ったらそれは無理なんです。社長ですから、人に対して「あなたこれやってください、あれやってください」という采配はできるんです。
 
私は社長役というのは、やりたくないんですね。人や物事の管理、いろいろな処理などに能力を使いたくない。

人に対して、何やってるのとか、こうしなさいとかね、あまり言いたくない。でも、言いたくて言いたくて自分自身でも落ち着かないんです。

でもそれは言わない。言ったら私はその人を管理することになってしまうから。そういう意味で自分で苦しんでいました。

お寺で言えば住職役ですね。これはものすごく嫌なんです。未だにお寺の鍵なんか持ったことはない。
たとえば、スリランカの寺の住職というのは経営者でもありますね。お寺だけじゃなくて村も全部管理するようなところがあります。場合によっては隣の村も管理する、地方も管理する、国にも影響を与えます。
  ▽
一生さんが社長として足りないところは、こちらで間接的に教えたり辛抱したり、裏でサポートしていました。私が全部やるんだったら社長はいらない。しかし私はそれはやりたくない。また、できない。

人は不完全だから仕方がない。その意味では、一生さんと私はいい組み合わせだったと思っています。

なにしろ最初は何もないところから始めたんです。たった二人だけで活動したんですね。

ときには対立したり喧嘩したものです。でも、それは仏教の内容とか相手の理解のレベルに応じてのことであって、対立する意思があったわけではありません。

社長役の人は、自分のセクションをちゃんとやってるんですね。私は私のセクションをちゃんとやる。ただ、時に社長が暴走しようとすることもあったので、そこにブレーキをかけるのが私の仕事でした。

組織になると、やはり社長とか誰かいないと動きません。また社長がいても、ちゃんと仕事をする社員が誰かになっていないと動きません。

やがて根守さんという編集者が入りました。そして、ボランティアで手伝ってくれる人が現れました。そうやって、一人、二人と次第に増えてきたんですね。
  ▽
一生さんは、協会が目白から幡ヶ谷のゴータミー精舎に移るタイミングで離れて行きました。

協会としての活動は、どんどん広がっていく。精舎も建立されて会員も増えていく。やがて、彼は自分の社長の能力の範囲を、ちょっと超えてきたなあと感じたのかもしれません。

規模が大きくなって拡大していった時、それらを管理しようとすると、人に対してああしろこうしろと口を出して指令してしまう。すると、うまくいかなくて対立が起きるんですね。
  ▽
一、二回そんなことが起きてしまうと、この辺で退いたほうがいいんじゃないかなと思った可能性はあります。

それに心臓が悪かったですからね、組織を管理して発展させることよりも、まず自分自身が修行に邁進しようと思ったのかも。それで、ミャンマーに行ってヴィパッサナーの修行に打ち込んだんですね。

協会の設立当初は、根守さんという編集者が本作りをしていました。
彼は一生さんが連れてきたので、私とはあんまりコミュニケーションはなかったんです。

一生さんが社長で協会として本を出版しなくちゃいけない、そのためには編集者が必要だとして探してきたんですね。根守さんは、自分の責任として本作りをちゃんとやりました。やがて、それが次々と単行本になっていくんですね。

スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。