過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラものがたり(58)瞑想について①

スマナサーラものがたり(58)瞑想について①

何かを得ようとする
ブッダの悟りというものは、たとえばヨーガの瞑想とか、いろいろな瞑想の境地とどう違うのか、よく聞かれるので、説明してみましょう。

人間はみんな「何かを得よう」とします。「何かになりたい」のです。
今の自分自身に対して、何かちょっとこれではダメ、このままでは困るというふうに思っています。
だから、いま自分にないものを何か得ようとするんです。

俗世間では、これまではいけない、もっとお金を儲けなくちゃとか。精神的な世界だと、もっと上に行かなくちゃいけないとか。

人間にはそういう気持ちがあります。その意味では、向上心であり、人間はどんどんと発達していくんです。
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物質的なものだったら、努力すればいろいろと得られると思います。

でも〝満たされない〟という心はそのままなんです。
いつも不満足。満たされることはない。それを仏教では〝ドゥッカ〟といいます。中国では、「苦」と訳されました。

いまのこの社会は、過去の人が頑張って作った社会でしょう。
でも我々は「もうちょっと何とかしなくちゃいけない」と思っています。そして私たちの次の世代にしても、「やっぱり足りない、なんとかしなくては」と思うんです。

それはまあ自然な人間の流れなんですね。
修行として、瞑想やらヨーガがら、呼吸法やら、たくさんあります。

それらをいくらやったとしても「このままじゃまずい、なんとかしよう」という心はずっと続きます。みんなセイムプロセス(同じ過程 same process)です。
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なにかやったら、「何か」を得ようとするんです。そして「何か」を得ます。
たとえば、サマーディーとか統一感とか充実感とか達成感とか。
しかし、何かを得てもまた失います。
だから、そこはまた不安になるんですね。

たとえば、いま持っているスマホに満足していますか?
もっと新しいバージョンができたら買うでしょう。今のスマホに満足してないってことはないんですね。気づいてないんけれど、新しいバージョンができたところでほしくなる。やっぱりカメラの性能がいいとか、そういうふうになるんです。

人は気づいていても気づいてなくても、いつでも現在の状況に不満なんです。

スマナサーラ長老のインタビューをもとに池谷が構成しています。