過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

目の見えない人の感性

普通のおばあさんが、義太夫を語るというのが、江戸や明治の時代であったろう。そして、義太夫というのは、発音・発声の仕方は関西である。

「目」という発音一つでも、関東と関西では違う。
歌舞伎の「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)で、花魁(おいらん)の「揚巻(あげまき)」が、寝ている助六に向かって「目を覚ましてくだしゃんせ」と言うところがある。そのフレーズだけでも音楽である。

目の見えない人の感性というところを考えてみた。
明治期の盲目の琴の奏者で作曲家の宮城道雄がいる。隣のおばあさんが義太夫を語り始めた。それが邪魔で作曲がはかどらなくなったというところがおもしろかった。以下、宮城道雄の随想から。
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発車のベルの鳴る頃は降りしきる雨の音が一しきりはげしかった。夜中過ぎても私は眠れなかった。急ぎの作曲があったので、それを考えようとすると、隣りにかけていたおばあさんが小さい声で義太夫を語り始めた。

そのうち、おばあさんは眠ったらしい。静かになったので、私はさっきの続きを考えはじめると、おばあさんが急に眼を醒まして、今度は三十三間堂のさわりを始めた。その声が誰にも聞こえない程小さいので、私にはそれが一層気になって仕事がはかどらなかった。
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私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。

やがては、誰しも騒音も何も聞こえぬ所へ行かねばならぬのだから、せめて生きている間は、騒音でも何でも聞こえることに感謝しなければならぬと思う。
それが、音の世界に生きる私共の――少くとも私の「こころ」である。

風の音、雨の音、虫の音、小鳥の囀る声、何一つとして楽しくないものはなく、面白くないものはない。
同じ風でも、松風の音、木枯の音、また撫でるような柳の風、さらさらと音のする笹の葉など、一つ一つに異った趣きのあるものである。
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私は雨の音が殊に好きである。とりわけ春の雨はよいもので、軒から落ちる雨だれの音などきいていると、身も心も引き入れられてしまうような感じがする。

虫の音にも、まつむし、鈴虫、くつわむし、それぞれ趣きがあってよい。秋の夜長を楽しませてくれるこれ等の小音楽師達に、私は心からの感謝を捧げたく思う。

自然の音はまったく、どれもこれも音楽でないものはない、月並な詩や音楽に現わすよりも、自然の音に耳をかたむける方が、どれだけ勝れた感興を覚えるか知れない。

私は箏を習い始めてからは、つらさも、悲しさも、うれしさも、いずれの時も箏と二人づれであった。箏に向えば希望が湧いて、いかなる心の苦難も解決出来るような気がした。
以上。宮城道雄の随想集から。
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ここは過疎地なので、人の声はほとんど聞こえない。しかも、きょうは私一人だ。

となりがホタル公園なので、休みになるとたまに子供の声が聞こえる。
小さな子どもたちが、なにやら叫ぶ音が聞こえてくる。
鳩のボーボーッという音も聞こえる。そして、薪ストーブのぱちぱちという音。