過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

秋田に取材 道を間違えて間に合わない?

秋田に取材の仕事。寒い2月のことだった。行き先は秋田の大館市。13時に訪問のアポ。そうすると、朝の5時前に家を出て掛川駅に車を置いて新幹線。そしてモノレールで羽田。飛行機で大館能代空港。こんな山里に暮らしていても、なんとかいける。

当日、あたりは真っ暗。対向車などない。いつもの道ながら、信号機を見落としたようだ。えんえんと行くが、あれれ、おかしい? いや、でもこの道のはずだ。いつの間にかダム湖の崖の道まで行ってしまう。そこまで行ったら、やっと気がついてあわてて引き返した。

しかし、もう新幹線は出てしまった後だった。もう間に合わない。出版社の編集者とカメラマンとは羽田で待ち合わせ。ライターの自分が行かないと仕事にならない。先方に失礼だ。仕事に穴を開けて信用をなくす。

──これはダメだ。あきらめよう。
ぼくはあきらめは早い。

──いや、しかしまてよ。もしかしたら。

妻に電話。すると、さっと調べてくれた。次の新幹線でギリギリ間に合うという。ということで、それに縣けた。
ギリギリのセーフ。なんとか羽田に間に合った。
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取材するのは、禅僧で医者。対本宗訓氏だ。氏は京大の哲学科をでて、禅僧として修行、臨済宗佛通寺派管長となる。帝京大の医学部に入って医者となる。緩和ケアなど、スピリチュアルケアに根ざした医療をめざして、秋田の病院の院長となった。医療と宗教の架け橋になろうとしていた。

当時はこちらに医療の経営とか、終末医療について、観念的な知識しかなかったので深いところまで聞き出すことはできなかったが、なんとか取材の仕事は無事終えたのだった。
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その日は一泊。
秋田の大館は雪が多くて、すごかった。雪の壁だらけ。

ちかくの佼成会の教会を訪ねる(立正佼成会の機関誌だったので)。女性ばかり20~30人。歓迎してくれた。みなさん、明るくて楽しそう。支部長がクルマでホテルまで送ってくれた。

ちかくを散歩。わっぱの店、障害者の芸術活動のサポートのNPOのギャラリーなどを訪ねる。夕食は、ラーメンと親子丼。これがとてもおいしかった。

しかし「秋田美人」とはいうものの、出会う女性に美人系が多いのは流石であった。

雪なのであちこち史跡巡りはできない。近くの神社、真言宗の寺院、日蓮宗の寺院など、訪ねて歩いた。「本尊様に参拝に来ました」というと、どのお寺も「どうぞどうぞ」と入れてくれた。

祝詞を唱え、不動真言を唱え、お題目を唱える。そこから、住職との語らいがすすむというわけだ。
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ただ、日蓮正宗のお寺だけは、嫌な顔をされた。
「ここはあんたのような人がくるところじゃない」と言われた。

創価学会の人と思われて、つまらぬ論争に来たと思われたのだと思う。日蓮正宗創価学会は、互いに憎悪した互いに仏敵として攻撃しあっている時代であった。

──いや、せっかく秋田に来たので、御本尊様にお題目三唱だけでも。
そう言うと「仕方ないなあ」という顔で本堂に案内してくれた。

そこで、題目を朗々と三唱。しばし唱題。
その声の響きを聞いて、住職の態度が変わった。

ガースストーブ、そしてお茶とお茶菓子を持ってきた。
「つまらん論争しに来たんじゃなくて、ちゃんとした信仰心がありそうだ」と思われたのかもしれない。
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そこから、あれこれと雑談していくと、互いに共通のお坊さんが何人もいた。ぼくが暮らしていた国立の大宣寺にもいたことがあるという。大宣寺出身のお坊さんは、10人くらい知っている。

当時の日蓮正宗は、創価学会を破門。信徒・檀徒のほとんどは創価学会員だ。

首都圏のお寺は、何万人もの信徒がいて、たいへんうるおって
貯蓄もたっぷり。創価学会と縁を切っても難の問題もない。かえって、清々するという思いだったろう。

しかし、田舎のお寺はそうは行かない。檀家のほとんどを占める創価学会員が参拝に来なく慣れば、収入はなくなる。そうして寺院は、総本山の大石寺から経営の維持費は出ているようだ。

豊かな暮らしを期待していたろうに、こんな田舎に派遣され、雪深い中で、信徒も全く来ず、さぞや残念だったろうなと思われた。まあしかし、住職も愚癡も言わずにたんたんと運命にまかせている感じであった。

まあ、そんなこんなで、私の場合、相手がなんであろうと、ダイレクトに訪ねて拝んだりしてきたわけだ。