過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

神仏分離と秋葉山

この分厚い古文書は、秋葉山に参拝したときの記録だという。江戸時代のもので、つづられた年月は100年近くになるようだ。
森町の日月神社(じつげつじんじゃ)の宮司と、秋葉信仰と神仏分離秋葉山秋葉寺)が破壊されたことなどを語りあった。隣には、神社の鰐口にチョークをつけて、刻んだ文字を書き写している方がいる。三人で、郷土史について語り合った。さすが森町、そういう話のできる人たちがいる。
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遠江国秋葉山(とうとうみのくに あきはさん)は、火防(ひよけ)・火伏せの神として信仰を集めた。全国に400社以上の分社があった。各地に秋葉講ができた。伊勢参りの途中で多くの人が参拝した。東京の秋葉原の名前の由来であり、AKBもそこからきている。
東海道名所案内図には、七堂伽藍(しちどうがらん)があり、大名行列のような人たちが参拝している。
幕末の頃、「おかげまいりと「ええじゃないか」運動が起きた。ものすごい数の人が、伊勢にお参りする。そして、天から伊勢神宮秋葉神社大麻(たいま)が降ってきたと言って大騒ぎ。男も女の着物を着て踊りまくる。その勢いで、倒幕の流れが進む。そして、明治維新を迎える。
明治維新は、薩長収奪政権であるがゆえに、将軍よりも高いものをシンボルにして人民を支配しようとした。それが天皇である。天皇を現人神(あらひとがみ)として、全国の神社をヒエラルキーの中に入れて統制支配する。神道の国教化政策である。
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そのために、1868年(明治1)3月に明治政府によって神仏分離令が出された。お寺と神社が合体しているところ、曖昧なところは、分離させた。そのときに、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起きて、全国のお寺が破壊された。いまは国宝の興福寺五重塔などは、焼き払われようとした。結局、興福寺春日大社と分離する。国宝くらいの仏像などは、海外に流出した。田舎の仏像や経巻・法具などは焼き払われたり川に流された。多くの貴重な古文書、文化財が喪失した。
そうした廃仏毀釈の格好の標的となったのは、京都の日枝神社秋葉山であった。
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秋葉山は、山門や仁王門などは破壊されて谷底に叩き落とされた。そして、本尊の三尺坊権現は、可睡斎(かすいさい:曹洞宗寺院)に持っていかれた。のちに、可睡斎は、秋葉山の根源、三尺坊権現は「遷座」したと称している。秋葉寺は破却されて廃寺となった。
いまの秋葉神社の上社は明治になって作られたもので、御神体は、葉神社の御祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)というのは、『古事記』からもってきて新しくつくられたものである。
秋葉神社の創立は、教部省と地方庁の権力をよりどころとした一山横奪にほかならなかったから、山上は不穏な状況となり、盗難などがあいついだ。六年十一月、大祭の前日に社殿が炎上したのも、放火によるものであろう。十三年には秋葉寺が再興されて、寺院と神社が併立することとなったが、両者の対立と反目はその後も長く絶えなかった。」(安丸良夫著 『神々の明治維新』)
春野町の霊的な源泉は秋葉山と思っているのだが、そこが破却され分断されたままである。
まあ、そのあたりはゆっくりと探求していく。