過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

歴代の天皇の位牌を間近に拝見したことがある

天皇の位牌を間近に拝見したことがある。お堂に入らせてもらうと、天皇の位牌がずらりと並んでいた。

祭壇には過去帳があった。畳半分くらいの大きさだったように思う。それをめくってみると、すべて天皇の名前が記されていた。天皇陛下崩御された日にちが書かれてあった。

そこは、京都の泉涌寺。皇室の「御寺」(みでら)と呼ばれる。真言宗泉涌寺派の本山である。

泉涌寺派の宗会議員大会の取材をしたことがあり、その際に、堂の中に、上がらせてもらったのだ。(じつは勝手に入ってしまった。とんでもない不敬かしれない……)

天皇の葬儀は、現在は神葬祭である。けれども、かつては仏式であった。そもそも、皇室にあっては、神仏は和合していたのだ。

たとえば、東大寺の大仏建立のとき、聖武天皇は自らを「三宝(仏法僧)の奴」と称した。桓武天皇は、最澄天台宗を重んじた。嵯峨天皇は、空海真言宗を重んじた。微白河法皇などは坊さんのスタイルで権力を駆使していた。後醍醐天皇は、密教を信仰して加持祈祷をしていた。

その他、自ら出家したり、政治的に出家させられた天皇は、たくさんいる。ゆえに、宮中は神仏融合していたのだ。

ところが、明治政府は、天皇御神体とする絶対主義国家を作ろうとした。その際、現人神(あらひとがみ)が仏教に帰依していたのでは、示しがつかない。ということで宮中にあっても、神仏分離が行われることになる。

宮中には、皇室の仏壇も位牌もあった。仏壇は処分されたかどうかは、わからない。では、位牌はどうしたか。焼却するわけにはいかない。

なにしろ天皇の位牌である。そこで、宮中にあった位牌は、泉涌寺に移されることになった。明治6年のことである。

そうして、今上陛下が大嘗祭で即位の儀式をすませると、伊勢に参拝された。その後、この泉涌寺にも参拝されたのであった。参考資料「神々の明治維新」(安丸良夫 著)