過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

マッカーサーについて 『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー著は、じつにおもしろい戦後史の資料

マッカーサーについて 『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー著は、じつにおもしろい戦後史の資料です。以下引用。
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東京都議会は「630万都民」の名において感謝の意を表し、マッカーサー元帥を名誉都民とする条例が施行されるであろうと報道された。「マッカーサーの碑」が建立されるとか、東京湾あたりに銅像が建てられるだろうという話も出た。

NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で「さようなら、マッカーサー元帥」と繰り返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば200万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約20万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ10倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。

吉田首相と閣僚たちは羽田空港マッカーサーを見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。「白い雲を背景に」マッカーサーの専用機バターン号が飛び立つ状景に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。

「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救いあげてくれた元帥、元帥!その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八カ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。

合衆国に帰国すると、マッカーサーは、アメリカらしく共和党の政治家が音頭をとって、英雄として尊敬を集めたし、彼の帰国後の様子は日本人の強い関心を引いた。四月一九日、上下両院の議員を前に、マッカーサーは演説をした。このときマッカーサーは、自分がウエスト・ポイントの幹部候補生だったとき兵舎で流行した歌から、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という有名な一節を引用して、演説を締めくくったのであった。

これには、日本でもアメリカでも感傷的な人々は同じように感動をおぼえた。しかし、もうひとつの五月五日の上院合同委員会でのマッカーサーの発言には、人々はそれほど感動はしなかった。というより、日本とアメリカとでは違う感想をもったのであった。それは体力を消耗する二日間つづいた証言の、まさに最後のころであった。

マッカーサーは、日本人の資質の素晴らしさや日本人が遂行した「偉大なる社会革命」についてだけでなく、第二次世界大戦での日本人兵士の最高の戰闘精神についても、高く称賛した。マッカーサーがこういう発言をした意図は、日本人はドイツ人よりも信用できると主張することにあった。日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護していくのだろうか。日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーはこう答えた。

「そうですね、ドイツの問題は、完全かつ全面的に日本の問題とは違っています。ドイツ人は成熟した人種amatureraceでした。

もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか宗教とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。

しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelveでしょう。

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。

ドイツ人はわれわれと同じくらい成熟していました。ドイツ人が近代的な道徳を放棄したり、国際間の規範を破ったりした時、それは彼らが意図的にやったことでした。

ドイツ人は、世界について知識がなかったからそうしたことをしたのではありません。日本人がある程度そうだったように、ふらふらと、ついそうしてしまったというのではありません。ドイツ人は、みずからの軍事力を考慮し、それを用いることが、自分の望む権力と経済制覇への近道と考え、熟慮のうえでの政策として、それを実行したのです。

ところが、日本人は全然違っていました。似たところはまったくありません。大きな間違いのひとつは、日本で非常にうまくいった政策をドイツにもあてはめようとしたことでした。ドイツでは、同じ政策でもそうは成功しませんでした。同じ政策でも、違う水準で機能していたのです。」

3日間にわたるこのマッカーサー聴聞会の議事録は、全部で17万4000語にのぼり、合衆国では、右の部分はほとんどなんの注目も集めなかった。

ところが日本では、ここにあるlike a boy of twelveという、たった五つの単語が、執拗なほどの注目をあびた。それは日本人の顔を平手打ちにした言葉のように受けとめられ、これを契機にマッカーサーを包んでいた神秘的イメージが失われはじめた。

マッカーサーの伝記作者である袖井林一郎教授は、マッカーサーのこのあからさまな言葉によって、いかに自分たち日本人が甘い考えでこの征服者にすり寄っていたかに気づいたと述べている。突然、多くの日本人がなんとも説明しがたい気分で自らを恥じた。ちょうど戦中の残虐行為が記憶から排除されていったのと同じように、この瞬間から、かつての最高司令官は人々の記憶から排除されはじめたのである。

もはや、マッカーサー銅像は建たないことになった。「名誉都民」の話は、その後けっして具体化しなかった。(『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー 岩波書店より)