過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

やはり敗戦、無条件降伏、アメリカの占領軍の支配下の歴史から。

なぜ日本が今のようになってしまったのか。その原因はどこにあるのか。どうしたらよいのか。
それはやはり、歴史を紐解くしかない。
江戸時代や明治維新から調べるのもよいが、直近には、やはり敗戦、無条件降伏、アメリカの占領軍の支配下の歴史から。
その歴史が今も根強く続いているからだ。
今回は、無条件降伏からマッカーサー民主化政策、憲法三原則まで。すごいのはその迅速なスピードである。1945年10月から12月までのわずか2カ月間に、「民主化」の基本政策を、矢継ぎ早に指令していったのだ。
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1945年8月15日 正午に、天皇による玉音放送。未明には、阿南陸相が自決した。24日に、田中静壱陸軍大将、海軍では、16日に軍令部次長の大西滝治郎中将などが自決した。技術士官、看護婦などにも自決者が出た。そして、陸海軍関係者のなかで自決した人の数は、六百人を超えた
重大放送の直後、全国の軍将校や文民官僚たちは、書類を焼き捨てたり、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭した。アメリカの空襲は終わったけれども、東京の空はそのあと何日も煙で暗かった
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1945年8月17日 東久邇内閣が発足した。「一億総懺悔」というスローガンを掲げた
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1945年8月30日 マッカーサーは、日本占領のため、アメリカ軍の輸送機バターン号に乗って、厚木飛行場に降り立った。
アメリカ大統領トルーマンから、日本においてはほぼ全権が与えられていた。
占領は1945年8月にはじまり、6年8カ月後の1952年4月に終わっている。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めた。
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1945年9月2日 降伏文書の調印は、東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で行われた。ミズーリの艦上には、ペリー提督が日本に開国を要求するため日本に来航した際に、ペリーが座乗した旗艦である外輪式フリゲート艦サスケハナに掲げられていた星条旗と、2つの5つ星の将旗が掲げられていた。全員が署名終わったときにマッカーサーは「いまや世界に平和が回復し、神がつねにそれを守ってくださるよう祈ろう。式は終了した。」と宣言した。
日本政府は連合国最高司令官の指示に従うこととされた。
イギリスのルイス・マウントバッテン伯爵は、昭和天皇がマニラまで来てマッカーサーに降伏すべきと考えていたが、マッカーサーはそのような相手に屈辱を与えるやり方はもはや時代遅れであり、日本人を敗戦に向き合わせるために、威厳に溢れた戦争終結の儀式が必要と考えた。
宣言と同時に1,000機を超す飛行機の轟音が空に鳴り響き、歴史的式典の幕を閉じた。皇居では昭和天皇が首を長くして降伏調印の報告を待っていたが、重光は参内すると、同行した外務省職員加瀬俊一の作成した報告書を朗読し「仮にわれわれが勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができただろうか」という報告書の問いに対して昭和天皇は嘆息してうなずくだけであった。
調印式から九日後の記者会見で、マッカーサーは日本が「四等国」になりさがったと述べた。
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1945年9月3日 シンガポールを陥落させた山下奉文陸軍大将はフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。1945年12月8日 マニラの軍事法廷で死刑判決を受けた。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせるように「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された。
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1945年9月8日 マッカーサーは幕僚を連れてホテルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。
軍楽隊が国歌を奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げるという儀式が執り行われた。
マッカーサーは、第一生命館を自分の司令部とすることにきめた。第一生命館は、皇居を見下ろす地上8階建てのビルであり、天皇の上に君臨して日本を支配するマッカーサー総司令官の地位をよく現わしていた。
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1945年9月10日 マッカーサー元帥の名で、日本管理方針を声明した。
日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、天皇の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持して昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった。
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1945年9月11日 第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。米英などに宣戦布告した時の内閣総理大臣で、陸軍大将でもあった東条英機が逮捕され、さらに海軍大将でもあった嶋田繁太郎外務大臣を務めた東郷茂徳など、軍部や政界の要人39人が、次々に逮捕されていった。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦と橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となった。
戦犯容疑者への逮捕命令は続き、12月に入ると、陸軍元帥であった皇族の梨本宮も逮捕され、さらに内大臣昭和天皇の側近であった木戸幸一や、戦時中、首相を務めた公爵の近衛文麿にも及んだ。
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1945年9月27日 天皇は、赤坂のアメリカ大使館に、マッカーサーを訪ねた。
昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」
それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。当時マッカーサーは65歳。天皇は44歳。
マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話ではこうなる。
裕仁マッカーサーを訪問したとき、天皇マッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受け取る前に真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」。
マッカーサー天皇の写真が、29日の新聞記事に掲載された。当時の国民にショックを与えた。多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見通り、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。
マッカーサー昭和天皇はその後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサー昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
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1945年10月2日 GHQ(General Headquarters) 連合国最高司令官総司令部第二次世界大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施した連合国軍機関である。連合国軍最高司令部、連合国最高司令官総司令部
極東委員会の下に位置し、最高責任者は連合国軍最高司令官連合国最高司令官とも、英語: Supreme Commander of the Allied Powers、SCAP、スキャップ)。日本では、総司令部(英語: General Headquarters)の頭字語であるGHQジーエイチキュー)や進駐軍(しんちゅうぐん)という通称が用いられた。
名目上あくまで「占領支配」ではなく「ポツダム宣言の執行」が本来の役目であるものの、実質上はアメリカ合衆国による日本国占領機関であり、結果として1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約が発効されるまで連合国軍占領下の日本は外交関係を一切遼断され、日本と外国との間の人・物資・資本等の移動はSCAPの許可によってのみ行われた
降伏文書に基づき、天皇並びに日本国政府統治権は最高司令官の支配下におかれた。
GHQ民主化指令を出す。日本政府に対し、政治的自由、市民的自由、宗教的自由に関する制限の撤廃と、十日までに政治犯、思想犯を釈放することを指令した。これで、治安維持法の廃止、共産党の合法化がなされなければならなくなった。さらにGHQは、内相以下、全国警察首脳部の罷免と、特別高等警察の廃止を命じた。
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1945年10月11日 GHQ(連合国軍総司令部)は、1945年10月から12月までのわずか2カ月間に、「民主化」の基本政策を、矢継ぎ早に指令していった。
まず、婦人への参政権付与、労働組合結成の奨励、学校教育の自由主義化、圧政的諸制度の廃止、経済機構の民主化――の五項目にわたる改革指令を、新首相・幣原喜重郎に示した。"治安維持法は廃止。保護観察下の者も含め、政治犯約三千人が釈放。
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1945年11月 連合軍は、南九州の沿岸へ上陸し、翌46年)春には、関東平野に上陸を敢行する計画。その兵力は、硫黄島や沖縄で味わった日本軍の頑強な抵抗からみて、かつてない大規模なものが必要と考えられていた。しかも、この上陸作戦には、アメリカ軍は二十万近い死傷者を予測していた
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1945年11月6日 GHQによる財閥解体指令
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1945年11月18日 軍需会社への補償の停止等を命令した。
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1945年11月18日 GHQによる皇室財産の凍結命令
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1945年12月9日 GHQ 農地解放 
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1945年12月15日GHQ 神道を国家より分離する」との指令を発した。
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1946年1月1日 天皇人間宣言
「……朕チント爾等国民トノ間ノ紐帯チュウタイハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神アキツキカミトシ、且カツ日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延ヒイテ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ……」
岡山では「酒本天皇」が出現し、鹿児島では「長浜天皇」が、新潟では「佐渡天皇」が、そして高知では「横倉天皇」が現れた。愛知県には二人も現れて、「外村天皇」と「三浦天皇」を称した。「熊沢天皇」熊沢寛道という名古屋の五六歳の雑貨店経営者。皇統の南朝北朝への分裂という一四世紀にまでさかのぼる天皇系図上の論争に基づいていたる。裕仁北朝の系統を引くものであり、熊沢がその子孫であると主張する南朝の方が正統であって、自分が皇統を継ぐべきだと主張。
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1946年1月4日 公職追放令が発せられ、軍国主義超国家主義に協力したとみなされた政財界人、官僚、言論人、教育者などが、各方面で公職追放となった。その人数は、二年間で約二十万人を数えるにいたった。
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1946年1月25日 マッカーサーは、米陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打った。
天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」
天皇を葬れば日本国家は分解する」
「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」
「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するといった希望はことごとく消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」
「これらの事態が勃発した場合、100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」
アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。
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1946年2月3日マッカーサーは、GHQ民政局に対し、憲法改正草案の早急な作成を指示し、草案に盛り込むべき不可欠の内容として、三点を記したメモを渡した。いわゆる「マッカーサーノート」。
そこには、(1)元首としての天皇の地位、(2)戦争放棄、(3)封建制度の廃止、が記されていた。
ここに初めて、「戦争放棄、軍備撤廃」が浮かび上がってきた。日本の新しい憲法は、マッカーサーが欠くべからざるものと言明した三原則に基づいて作成されることになった。ホイットニーがこの会議に持ってきた走り書きのメモには、次のように記されていた。
天皇は、国家の元首の地位にある。The Enperor is at the Head of the State。皇位世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示される国民の基本的意思に応じるものとする。
「国の主権のひとつとしての戦争は、廃止される。日本は、自国の紛争解決のための手段としての戦争、さらに自国の安全を保持する手段としての戦争でさえも放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある、より崇高な理想に委ねる。日本のあらゆる陸海空軍はけっして認可されず、あらゆる交戦権はいかなる日本軍にも与えられない。
日本の封建制度はその役割を終える。The feuda lsystem of Japan will cease。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な独自の政治権力を伴わない。予算の型は、英国の制度にならう。
立憲君主制、絶対平和主義、封建制度の廃止などの原則だけ大仰に宣言し、細かいことは部下に委せるというやり方であった。
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以上、参考にしているのは、Wiki、ジョン・ダウアー「敗北を抱きしめて」など。戦後史を毎日、すこしずつGoogleSpreadsheetに入れている。なかなか楽しい作業だ。