過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戦後の闇市 軍需物資の横流し

「わしは20代の頃は横須賀でヤクザをしていてのう」
──ええ!びっくり。それはまたどんな仕事していたんですか?

天皇玉音放送のあと、軍部が蓄えていた物資は、横流しになった。属していた組が闇物資を運んで管理して闇市で販売していた。わしはその仕事をしたんだ。おもしろかったなあ。」

──それはまた、あぶない仕事をしていましたね。
「そうだなあ。親分は刺されて殺されたけどなあ。わしは評判がよくてのう、みんなから好かれたよ」

時間がなかったので、またその話はゆっくりと聞かせてもらうことにした。
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うちの施設の利用者さんの一人は、戦時中は、二俣の女学校に宿舎から通っていた。あるとき学校の床が全部剥がされてミシンがズラッと置かれた。カーキ色の生地が山と積まれていた。

「これから、あなたたちは兵隊さんの軍服を縫うんだ」
と言われた。それから、毎日、軍服を縫うのが仕事になった。授業などはなくなった。

ところが、玉音放送のあった翌日のこと。
山と積まれていた布はすべてなくなった。「あれはいったいどこにいったのかしら」と言っていた。
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玉音放送の後、全国の軍将校や文民官僚たちは、書類を焼き捨てた。占領軍に見つかると自分たちに責任が及ぶことを恐れてのことだ。

あるものは、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭した。占領軍がやってくるまでは、統制も秩序も失われていた。物資の横流しや窃盗が頻繁におこなわれた。揮発油(ガソリン)や軽油をドラム缶代用の木樽に入れて、見つからないように各地の山に埋められたりした。
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また旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類も、大半が行方知れずとなってしまった。そういうものが、政界に流れたとして隠退蔵物資事件が明るみにもなった。

児玉誉士夫などは、大量の軍需物資を政界工作に使って、日本の黒幕として暗躍したのであった。

児玉は、戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供し。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
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生きるためには、いろいろなことに手を染めなくちゃいけなくなる。
ましてや戦後は、まったく物資が欠乏していた。
食糧危機だった。そんななかで、闇市が盛んになった。

戦後は、食料飢饉でたけのこ生活(たけのこの皮を剥ぐように、着物を売っては食料に変えていた)。農家から着物と交換した食料をリュックで運んでも、闇物資として、官憲に見つかれば取り上げられてしまうのだった。

食糧不足の原因には、農産物の不作、引き揚げ者による国内人口の急増、海外からの輸入の途絶があった。

全国消費者米価によれば、終戦の一九四五年(昭和二十年)を一とすると、二年後には、「二十五倍」以上。さらに一年たつと、「六十倍」以上にはね上がっていた。

闇買いを一切拒否すれば、餓死してしまう。闇市の闇米を拒否して食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した裁判官もいた。
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また、そんな時代がやってきそうな予感がする。