過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

やがてジープがやってきた

75年前の今日(1945年9月2日)、戦艦ミズーリの艦上で日本は降伏文書に署名した。
以下は、郷土史家の木下恒雄さんから聞いた話。
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終戦のときは小学生だった。玉音放送の日は、となりの森町まで、生徒がみんなで背負子と鎌を持って草刈りに行った。片道2時間余はある道のりだった。
学校に戻ると、「とても大事な放送がある」と言われた。しかし、聞いていても、雑音がすごいし内容は難しくてさっぱりわからない。家に帰ると、みんなが「戦争に負けたらしい」という話をしていた。
「いま戦地に行っている兵隊さんは、日本にはかえってこれなくなって、みんなアメリカの奴隷になる」と心配していた。
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日本は無条件降伏した。やがて、この山里にも占領軍がやってきた。ジープに乗ってきた。それは、ものすごい速度と馬力だった。カッコよくて度肝を抜かれた。「これでは、戦争に負けるのは当然だ」。子ども心につくづく感じた。
なにしろ当時は、クルマといえば、木炭車だけだった。生木を釜に放り込んで、手回しの扇風機で風を送って火をおこす。子どもたちも手伝わされた。たいへんな重労働だった。そして、煙の様子を見て運転手が発車する。しかし、馬力はないので、坂道は止まってしまう。乗客が下りて、みんなで手で押したのだった。
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それにしても、アメリカと戦って勝ち目のないことは、軍の首脳部もわかっていたはずなのに、どうして戦ったのだろうか。
首脳部は、それは軍部の若手のテロを恐れて引き返せなくなっていたのではないか。そのあたりは、『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』(原田熊雄:西園寺公望の晩年の私設秘書)を読むとわかると木下さんは言っていた。
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