78年前に広島に原爆が投下された。1945年8月6日午前8時15分。大量虐殺「ジェノサイド」である。人類史上初の都市に対する核攻撃であった。
一発の爆弾が、非戦闘員である市民、二十万の死傷者を生んだ(2~4ヶ月以内に死亡者も含む)。当時の広島市の人口は35万人(推定)。原爆投下後の入市被爆者も含め56万人が被爆した。
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ちなみに、アメリカが、原爆の実験に成功したのは7月16日。7月26日には、ポツダムで日本に最後通牒を出していた。日本はそれを「黙殺」したのであった。
アメリカ大統領のトルーマンは警告した。降伏をしなければ、さらのもっと軍事施設を破壊する。ただちに工業都市から立ち去って身を守れ、と。
原爆投下のその日、トルーマンの声明が、ラジオで発表された。
「われわれは、この科学史上最大の賭けに二十億ドルを投じ――そして、勝った。(中略)今やわれわれは、それがいずれの都市であっても、日本が地上に保有するすべての生産施設を、迅速かつ完全に消滅させる用意が整った。われわれは、彼らのすべての造船所、工場、そして、通信網を破壊するであろう。われわれは、本気である。われわれは、日本の戦争遂行能力を徹底的に壊滅させるであろう。」
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アメリカはこの民間人の大量虐殺に「快哉」を叫んだ。
日本は卑怯にも戦線布告せずに真珠湾を突然に攻撃した。南方戦線でアメリカ人の捕虜を飢餓に陥らせ酷使し、投打し処刑した。国際戦時法に従わなかった。
この原爆は、われわれアメリカ人の命を救うため、戦争の苦痛を短縮するためである、と。
もしも本土決戦となれば「一億総玉砕」を叫ぶ日本が、どれほど死にものぐるいになって襲いかかってくるのかわからない。泥沼化すれば、どれほどの多大なアメリカ兵の命が消耗することか。対日戦を早期に終結させねばならない。
そのための原爆投下であった。
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またそれは、大量の人体実験、核兵器の実験と測定、投下後の環境調査など、いろいろな意味があった。
さらには、やがて起こるであろうソ連との戦いにおいて、優位を示したい。見せつけたい。それには、原子爆弾が一石二鳥であった。
原子爆弾の第二弾は3日後の8月9日、長崎に落ちた。ここでも、一瞬に十数万の死傷者をみた。
また、この日の未明に、ソ連は宣戦布告し、満州(現在の中国東北部)に侵入した。
もはや万事休す。
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この日の最高戦争指導会議で、初めてポツダム宣言の各条項が、真剣に検討された。深夜11時50分に聞かれた御前会議で、全面降伏が決定となる。ただし、天皇の地位保障を条件とすることにした。
翌8月10日、ポツダム宣言受諾を連合国側に伝える公電を打った。「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という条件を付した。