過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

気づきを持ってしっかり、ちゃんと怒ってもいいのだ

気安く声をかけたら、突然に猛烈に怒りだした。「おまえなんか、だっきらいだ」という。なんのことだか、さっぱりわからない。その人の家で何かわるいことをした? 記憶がない。その人に家に行ったのは10年も前のことだし。

で、そこで受け流してしまえば、それでおわりのところ、さて、こちらもそれに対して怒り返したらしたらどうなるか。

「あなた何を言っているんですか。なんのことですか。その怒り方は尋常じゃありませんよ」と、向かっていった。すると、相手はさらに逆上してきた。こちらは、退かない。さらに……。

けれども、妻もあかりもその場にいるわけなので、そこそこにして去った。

春野の産業祭に出かけた。あるブースで、ひさしぶりの人がいたので声をかけたときのことであった。
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怒るとエネルギーが出る。破壊的なエネルギーだが、その瞬間の高揚感はある。
しかし、怒りが収まってくると、あとからどーんと疲れるんだ。このメカニズムを解明したいと思っているのだが。
     
怒った勢いで、次々と何かをしでかす。なにしろ、すごくエネルギーがでるからね。
怒りが燎原の火のように拡大していくこともある。こちらも、怒り返す。怒りが増幅する。もう手がつけられない。これは集団でね、国のレベルでもあることだ。戦争はまさにそれでもある。
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まあ、怒られたら、それは自分の過去のカルマが完了したという考えが一つ。怒られることで、なにか自分の中から次のエネルギーが湧いてきて、新しいものが胎動していくきっかけになる、という考えも一つ。
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怒りとは、霊的な次元から見ると、怒りのエネルギーを食料にしている霊的な存在があるのかもしれない。
怒ると邪気というか、破壊のエネルギーが猛烈に発散される。

それを心地よいと感じてエネルギー源にしている存在があるのかもしれない。それは神というのか、悪霊というのか、集合霊、精神的集合体といえるかな。

かれらは三次元にはいないので、かれらどうしのやり取りというのはできない。三次元の存在(つまり私たち)を通して、喜怒哀楽を得ようとしているのかもしれない。

かれらは「もっと怒れ、もっと怒れ」と双方に怒りを燃え立たせる。そのときには、私たちはいわば憑依現象のようにもなる。霊的存在と同調、共鳴、交流しながら怒っている。
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酒などで酔うと怒りがセーブできない人がいる。私は酒の場で怒ったり怒られた経験は数々ある。もういまは、ほとんど酒は飲まないけれど。

友人の体験。酔っ払ってタクシーに乗った。目的地について、料金を聞くとすごく高かったの。「ふざけるな。こんなに高いんじゃ、泊まったほうがよかった」と怒った挙句、運転手をぶん殴ってカネを払わず事務所に帰った。

翌日の早朝、ソファーで寝ていると「おい、開けろ」ドンドン。「開けろ」ドンドン。「はあ?いったいなんだ」とドアを開けたら、「警察だ」と逮捕令状。その場で腰縄と手錠かけられて逮捕。しかも、腰縄と手錠姿はテレビ放映までされちゃった。
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ま、人生、怒りにまかせて行動するとろくなことはない。それはたしかだ。

怒りのコントロール法は、ただひとつ。怒りが起きる瞬間に、気づくこと。怒ってもいい。

怒りに気づくと、そこはおさまるのだが、そこがとても難しい。
そうして、怒りがおさまる頃、こんどはどおーんと、落ち込む。後悔する。反省しても取り返しがつかない。ウツになる。

しかし、気づきを持ってしっかり、ちゃんと怒ってもいいのだ。すると、その怒りは結構鋭く相手にキリのように差し込んでいく。だがまたカルマを積むので止めておかねば。