過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

イメージを使うという方法

呼吸について、内側から感じる、気づく、観察するということについて書いたけれど、ちがう方向のアプローチがある。それは、イメージを使うという方法。

こちらは、祈りとか念、祈祷の次元になると思う。仏教の文脈でいうと、前者は原始仏教、後者は密教に近いかな。

内田樹さんの「日本習合論」を読んでいて、祈りとイメージとの関連性を感じた。

以下、引用。読みやすいように改行は池谷が勝手に行っている。
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武道の稽古をしていると、脳内に生じる「念」がどれほど身体の物理的・生理的プロセスに現実的影響を与えるのか、よくわかります。

たとえば、ある技を行うときに、「相手の腕をつかんで、引き上げて、肘をねじって、投げ倒す」というふうに運動を「念」じるか、あるいは「空中にある剣の柄をとらえて、胴を切り払って、刃筋の進む方向に全身を整える」というふうに運動を「念」じるかで、動きの質も動線も使われる筋骨も、まったく違うものになります。

そして、この場合は「相手の腕をつかんで......」というふうに目の前にある現実を相手にするよりも、「想像上の剣」という、「そこにないもの」を操作するほうが、技が効く。現実変成力は大きい。そういうことが起こる。
(中略)
以前、合気道部の部員からこんな経験談を聴いたことがあります。彼女が中学生の頃に、校舎の中で友だちを追って走っていたら、夢中になって目の前にガラス戸があることに気がつかず、そのまま割って通り抜けてしまった。体重四〇キロもないか細い女の子が、廊下のガラス戸を突き破ったのです。彼女は「ガラス戸が存在しない廊下」という「そこにないもの」にリアリティを感じたせいで、巨大な現実変成力を発揮したわけです。

現実を相手にしている人間だけが現実的であるわけではありません。非現実的なものを相手にしている人間のほうもまた等しく現実的であり、ときにははるかに現実的である。認知的には「非現実」とみなされたものが、遂行的には「現実的」に機能することがある。だとしたら、「現実」と「非現実」の境界線はどこに設定したらよろしいのか。

僕はそのような境界線をきちんと線引きすることはむずかしいだろうと考えています。

人間の理性が及ぶ範囲は限定的です。その外側は、人知をもってもっては制御しえないものが領域です。

ときどきその「外部のもの」が境界線を越えて、人間たちの世界に侵入してくる。逆に、人間がうっかり境界線を踏み越えて、「外」に迷い込んでしまうこともある。

だから、「外部のもの」を迎え入れたり、押し戻したりするための、あるいは「外」に迷い込んだ人を呼び戻すための儀礼や戒律が伝統的に存在する。(日本習合論 ミシマ社 著者内田樹より)
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