過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

神話・伝説・昔話の再生機能について

物語、神話の再生機能について。日本の民話、世界の物語、さらには、仏典の物語など、いろいろ想像しているところだ。

以下は。河合隼雄さんの「イメージの心理学」(青土社)から。
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誰しも「得意のお話」というのを持っている。自分のことをここで思い出してみると、「得意の話」というのは、何度も話をしているうちに、少しずつ変貌して、何かある種の「型」のようなものを持ちはじめることに気づくであろう。

もっとも、そんな変貌に自ら気づくよりは、記憶そのものが変化してしまっていることも多いであろう。このような例に接していると、無意識の「神話産生機能」ということを考えさせられる。

神話産生機能と言うのは、エレンベルガーが『無意識の発見』(弘文堂)のなかで、無意識の機能のひとつとしてあげ、今後、もっと研究すべきであると示唆していることである。

つまり、人間の無意識は、お話をつくるはたらきをもっている、というわけである。
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さきにあげた、X教授の若き日の英雄像の話は、彼個人の「神話」として、無意識が生産したものだ、と考えるわけである。

X教授の話を、「またか」と思って聞くという表現をしたが、このようなことは常にそうなるとは限らない。たとえば、X教授を尊敬する弟子のグループであれば、その話を何度聞いても、皆が感心するかも知れない。

あるいは、そのなかの一人は、新しくグループに加わってきた人間に対して、X教授の「逸話」として、それを得意気に語るだろうし、それを語っているうちに、自らの「神話産生機能」のはたらきによって、話に尾鰭を付けるかも知れない。

つまり、物語というものは語るのも、それを聴くことも好かれ、それなりに変貌し遂げてゆくものである。
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自分が釣に出かけ、思いがけない大きい魚を釣ったときの例を考えてみよう。それを人に告げるときに、「この位の大きい魚」、と手で示してみたり、「釣竿がこんなにまがって折れるかと思った」と語ったりするが、それを伝える相手によって、こちらの表現が微妙に変化していることに気づくであろう。

実際に釣った魚より、よほど大きい魚のように手で示したり、それほどでもなかったり。これは、われわれが相手に一番伝えたいのは、それを釣ったときの「自分の体験」そのものであって、魚の大きさではないからである。

思いがけないものが釣れた喜び、その感動、それが伝えたいのだから、やはり相手によって表現も変ってくるのである。
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このようなことを考えると、神話・伝説・昔話などに、まったく非現実的なことが物語られることが了解されてくるのである。

親指ほどの子どもが大活躍をしたり、白鳥が乙女に変身したり。父親から子どもが生まれたり、時には魔法の力によって、変身したり、これらのことが、長い期間にわたって語りつがれてきているのも、それを語ることや聴くことに、人間が大きい価値を見出しているからであると思われる。
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特に、昔話の場合は、何ら文字によって記録されていないのに、口承によって伝えられてきたのだから、その意義の深さがわかる。

それと、もうひとつ注目すべきことは、先のX教授の例の際に、話に尾鰭が付くと述べたが、それはあくまで「尾鰭」であって、本体を変えるような変化はなかなか生じない、という事実である。荒唐無稽な話のようでありながら、それはそれほど勝手に変えられない性質をもっているのである。