過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

まちなかに出るといろいろ用事がたくさん

ひさしぶりに「まちなか」にでかけた。途中、天竜茶を販売しているMさんの露店によって、お茶の話を聞いた。その該博な知識と研究心、たいしたものだ。
さて、市民税課で証明書もらって、財団に助成事業の企画書を2本提出してき。ついでに、法務局に行って法人設立のための不備だった書類の申請書出してきた。
県の農林事務所に立ち寄って、一級河川の水利の話、農業振興基金協会の助成金の話やら、ハラール食品加工の話やら、あれこれ。おかげで、ちと名案が浮かんだ。
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帰りには、クルマのパンクの修理。その間、サイゼリヤで超安いミラノ風ドリアとフォッカチオとシュリンプで850円。書店で週間文春と新潮の立ち読み、まったく読むべき記事なかったな。ベストセラー本も、ほとんど関心がない。
帰りに友人宅で、和紙づくりと広大な中国の地理と歴史の話をして帰ってきた。
ま、こんな話を書いても、ほとんどメッセージ性がないな……。次から次へと忙しかった、それだけということになるか。
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帰宅したら、人から息子が巻きこまれているネットのごちゃごちゃの相談を受けたりして、「親と影の支配」について語った。
河合隼雄さんの「影の現象学」をコピペして送った。かこういう本は、OCRしてテキストエディタに入れているので、瞬時に検索できるわけだ。
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以下、「影の現象学」(河合隼雄)から、

影の肩代わり
影を抑圧して生きながら、影の反逆をまったく受けていないように見える人もある。
しかし、よく見るとその人の周囲の人が、その影の肩代わりをさせられている場合が多い。
たとえば、宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。
世間の人はどうして親子でありながら、あれほど性質が異なるのか、といぶかったり、息子の親不孝ぶりをなじったりする。あるいは、聖人、君子と言われていても案外子供には冷たいのではないかとか、親子関係の悪さを勘ぐったりする。
しかし、これはそのような次元では了解できないことであり、たとえ、親子関係に一般的な意味で問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子供の肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。
一般に信じられているように、親が悪いから子供が悪くなるという図式で了解されるような場合は、治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子供が悪くなっているとでも言うべきときは、治療はなかなか難しいのである。
それほど劇的ではないにしても、子供は多かれ少なかれ親の影を背負わされるものである。
子供はそれと苦闘しつつ、結局はそれを背負って親とまったく逆の生き方をするか、影を排除しようと努めつつ親と同じ生き方をするか、になってしまうことが多い。
親をいろいろと批判しつつ、子供は親と同じか、あるいはまったく逆かのふたつの生き方を選ぶことが多く、親の生き方を適度に修正することは、ほとんど至難のことと言ってよい。
そこには、無意識的な影の力が働いているため、意識的な努力に強い慣性が作用しているのである。
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引用、おわり。