過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「影」は、理想に後ろに隠れて見えない、見たくない現実、醜い姿、知られたくない自分として

影(1)この数年も気になっていることがある。いや数十年にわたって。

それは「影」ということ。

「光」があれば「影」はある。「光」と「影」はワンセット。

ここでいう「影」とは、みたくない現実、理想に隠れて見えない存在。しかし、ちゃんとある。つねにある。無意識の底にある。

「光」とは、生き方としての理想。目標。真実とか善とか美とか、とにかく理想的なもの。

その「影」は、「光」のうしろに隠れて見えない。見たくない現実、醜い姿、知られたくない自分として。

「光」を追い求めようとするときに、返す刀で「影」をにくむ。「影」が邪魔だ「影」さえなれれば、光輝くまばゆいばかりの世界なのに、と。

しかし、ちゃんと「影」は存在する。「光」と「影」はワンセットなのだから。

人は「光」を求めるあまり、「影」の反逆を受けるのかもしれない。しかしそれは、無意識の反逆だから、わからない。抑圧しようとすれば、手痛いしっぺがえしをくらう。

そうして、もうひとつ。見たくない「影」は、外部に、投影としてあらわれる。にくたらしい存在、いやなやつ、悪そのものみたいな存在として。人はそれを見出して。それを攻撃する。憎む。つぶす。戦う。そのことで、やったーと満足する。禅の勝利だ、と。

しかし、「影」は、敵ではないのだろう。その「影」こそが自分自身のひとつのありよう。「影」があってこそ「光」が際立つ。自分の見たくないところ、だめなところ、抑圧してきた生き方、そういうものを「影」として認識し、「影」と和解する。「影」を受けいれる。そのことで、肩の力の入らない、自在の生き方ができるという見方もある。

「影」の問題は、自分の生き方として、社会のありようとして観察することができる。探求していく。(続く)