過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ダライ・ラマ②

人は全面的に尊敬し信頼し崇拝しようとする。光だけ見ようとする。けれども、影の反逆に遭い、足元を救われることだってある。

光を見ていて、なにかの拍子にヒビが入ると、なあんだということで、失望し裏切られたようになる。するとこんどはゴミ箱に捨ててしまったり、攻撃したりする。それはよくあることだ。ぼく自身にもある。

ものごとには、光と影がある。その両面を見ていこうと思っている。とくに宗教については、光と影がはっきりする。イエスは光そのものであり、サタンは闇。ブッダは光そのものであり、提婆達多は闇。宗祖は光、その教えに逆らうものは、闇。ということで、争いが起きる。お互いが自分たちは光であり、相手は闇だと思い込む。

また、人はレッテルを張ると、固定してそこからもう動かない。

たとえば、オウム真理教は悪そのもの、荒唐無稽そのものということになっている。しかしオウムにも光の部分があるのだ。そう書いたりすると、即座にアヤしまれたりするのだが。

ダライ・ラマは、光である。威光である。なので、その影の部分を持ち出すと、きっといやがられる。この投稿は、ダライ・ラマをディスカウントする目的ではない。いろいろな角度から、ものごとをみていこうということだ。

ダライ・ラマは「権威」になっているので、その威光を利用しようという流れは当然起きてくる。ダライ・ラマは、そのあたり清濁併せ呑むというのか、無頓着な感じである。

たとえば、オウムとのかかわりである。麻原彰晃には、5回会っている。ともに手を握り合い、にこやかに写真に収まっている。オウムは、それらを宣伝につかった。オウムに利用されたとも言えるが、結果としてオウムをサポートしたことにもなる。

ちなみに、スリランカテーラワーダ仏教のマイトリー長老、ラーフラ長老、インドのパイロットババ、シヴァナンダアシュラムのチダナンダなど、一緒に麻原と写真に収まった写真がある。

ダライ・ラマは麻原をこう評価している。「麻原さんには、大きな感銘を受けている。彼が成功することをいつも祈願している。日本に本当の宗教を伝えてもらいたい」。そして、オウムの宗教法人の設立については、推薦もしている。

いっぽうダライ・ラマが、その後のオウムの破壊的な行為に対して、なにかメッセージを発したり、麻原を戒めたという話は聞かない。

日本では、いろいろな宗教団体から招聘され、多額の寄付を受けている。オウムからは、多額の布施を受けた(総額1億円)とも言われる。また、念仏宗からは2億円の寄付を受けたという報道もある。

亡命政権を維持するには、お金がかかる。インドのダラムサーラという高地にあって、経済活動はなかなか難しい。

そこで、全世界で講演し、その教えを広め、弾圧されているチベットの人々のことを世界に知らしめている。その際、寄付を受けることで、亡命政権の経済基盤に寄与しているのだと思う。

ダライ・ラマを、生き神様のようにありがたいと思っている人は多い。そこに理想を投影しやすい。しかし、一般論としてだが、生きている現実のその人は、実際には違うということはよくある。

これが、イエスとかブッダとか、孔子とか老子とか、はるか過去において亡くなって、教えだけが残っている場合は、理想を投影されたまま、裏切るということはない。

いろいろな角度から、ものごとは、みていかなくちゃならないとは思う。

https://www.youtube.com/watch?v=r0RoErL7JD4