過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

アンデルセンの童話に「影法師」というのがある。

影について(2)アンデルセンの童話に「影法師」というのがある。

あるところに真善美を探求している学者がいた。ロウソクを灯しながら、読書している。灯りは部屋の壁に長い影法師が映しだされる。

向かいの家のバルコニーから、なにやら不思議な光がさしている。花という花が美しい色に輝く。そこに、すらりとした若い女が立っていた。光はその人からさして来るようだった。

すると学者の影法師は、「自分が行ってなかを見てこよう」と言い出す。そして、その部屋に入ってしまうのだ。じつは、その部屋の住人は、あらゆるもののなかで、一番うつくしいもの、すなわち「詩」だった。

影法師は学者からはなれて、自分意思で動きだし、金も名誉も手に入れる。いっぽう学者は人々から、まるで影法師のようですよ、と言われるほど、落ちぶれてゆく。

ついには、地位は逆転して、学者は影法師の家来になってしまう。やがて影法師はある国の王女と結婚することになった。影法師の秘密を知っている学者は、監禁されて殺されてしまう。こんな物語である。

ところで、学者が落ちぶれていくのはどうしてか、影が分離して独り歩きするのはどうしてか。

とみていくと、いくら真善美を探求していっても、そこのハートがともなわないと、人々には伝わらない。枯渇するばかりである。生命力をもたない。たましいの中核を欠いているとも言えるだろうか。

「影」は、そうした感性、たましい、ハートということもできるだろうか。ユング心理学で言えば「アニマ」だが。学者ほんらいのたましいは、もっともっと躍動したかったわけだが、謹厳実直に文献学的に、そのエネルギーを抑え込んでいたのだろう。そうして、影は反逆していく、と。

昨日、こんなはなしを友人としたのであった。彼女の書く文章にはすごみがある。「いまさら失うものなどない」という。いつか売れっ子作家になる、とぼくはおもっているのだが。

あからさまに自分のことを書くというのは、リスクがある。政治のこと、世相のこと、現代社会がどうのと書いていれば、ちっともリスクはない。ところが、「わがごと」を書くとなると、途端にリスクがある。

あれこれ言われる。興味本位で見られる。なかには、おせっかいにアドバイスをしてくる人もいる。それもなかなか鬱陶しいこともある。

ということで、ぼくのほうは、リスクを取らず、あたりさわりなく書いていることになる。もっとハートをとなったものを、みずからの本音の部分を、もっとたましいの深層のところを書いていけるようでありたいとは思いつつ。