過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

あるがままにみるのは難しい、という話になる

「なにが写っていないか」「なにが書かれていないか」
そこにフォーカスして、マスコミに接するとおもしろい。
ぼくは仕事が編集ということもあり、映像とか本とか、まるのみにはしていない。映像に映らないもの、活字にされないもの、選択されなかったものはなにか、そこに目が行く。
たとえば、写真。そこに写っていない人物を探すことで、いろいろ見えてくる。
かつての毛沢東スターリンの時代、政敵になった人物は、写真から消されている。本来そこにいたはずの林彪とか劉少奇トロツキーなどは消されている。
日本の某巨大宗教団体も、似たようなことをしている。後に反逆した人の姿を、記念写真からせっせと消したりする。
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有名人、えらい人、聖者みたいな人を訪ねて、インタビューして本を作ることがよくあった。
語ったことの、7割くらいは外している。雑音、ノイズ、偏見、愚癡、思い込みのようなものは、外して書く。いいものを抽出して、これは? というものは外す。
なので、ものすごくいい人として表現できるし、いい人だけどすこしだめな人とか、編集次第で表現することが可能だと思う。
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そういう編集の目で、聖典というものを見てみる。
経典、聖書、論語老子ソクラテスの言葉、さまざまな聖者の言葉を読んでいる。
その背後にあるその人の人格、暮らし、日常、選択されなかったもの、外されたものに意識がいく。聖典の編集者、あるいは作者の意図に目が行く。
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マスコミとか映像とか書籍は、真実を伝えない。じゃあ、自分で見た目があるがまま、そのとおりかと言うと、そうでもない。
自分で見ている世界は、じつは自動反応的に選んでいることがある。色眼鏡で見ることがある。偏見と思い込みが背後にある。心理学的にいうと、自分の抑圧したシャドーに影響され、汚染されていることもある。逆に理想の投影もある。
あるがままにみるのは難しい、という話になる。