過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

拝む弾みのお念仏 はっと気がつきうろたえました

「九段の母」──近頃よく歌う歌がこれ。うちの施設の80代の利用者さんでも、よく知らない。けれども、戦中には大ヒットした歌だ。
東北から母親が上京する。上野駅から九段下まで杖を頼りに一日がかりで歩く。戦死した息子に会いに。金鵄勲章を携えてくる。母は、大きな社に神と祀られている息子を光栄に思う。
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戦死の知らせを聞いて、どれほど母親は泣いたことだろう。しかし、歌では神と祀られもったいないと歌う。
気になるのは「両手あわせてひざまずき、拝む弾みのお念仏 はっと気がつきうろたえました せがれ許せよ田舎者」というところ。
この母は、お念仏をとなえてしまう。そのことに、はっと気づいてうろたえたのだ。
どうして、「せがれ許せよ」となるのか。
この理由は、なかなかわかりにくいと思う。
で、ぼくなりの解釈。
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日本人にとって、お念仏は、死者の鎮魂供養のつぶやきみたいなものだ。浄土真宗の教義は別だが(真宗にとっての念仏は、すでに浄土に往生している、救われているのだから、報恩感謝の念仏という)。
まあ、それはおいといて、多くの日本人にとっては、鎮魂供養のつぶやきは念仏と相場はきまっている。
ところで、靖国に祀られているのは英霊である。「神」である。不成仏霊はまつられていない。神には、鎮魂は必要ない。なので、念仏をとなえたら失礼になる。だから、母はうろたえ「せがれ許せよ」と言うわけだ。
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問題なのは靖国神社の教義だ。本来の神道ならば、死んでから荒御霊(あらみたま)から和御魂(にぎみたま)になるまで、三十三年、あるいは五十年くらいかかる。その期間を経て祖霊と同化する。それが精進あげだ。
ところが、戦争でたたかって死んだときには、三十三年かかることなく、死んだ瞬間に英霊=神となる。そういう教義だ。
そうした教義をこしらえたのが靖国神社だ。戦争で死んでも怖くないぞ。みんな神になるのだ。親が息子が戦死しても神になるのだから、ありがたく思え。なにしろ日本は神の国なんだというわけである。戦争に赴かせるための教義であろう。靖国は、いわば、急ごしらえの新興宗教である。

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