過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ありがたそうだから拝む。それが、日本の神道のありよう

クリスマスは、神の子イエスの生誕を祝う。神とイエスは同体。それが、キリスト教の教義。精霊もそうだが、よくわからない

日本は、古来、神道の国。おんなじ神でも、唯一神ではない。多神である。神というよりも、カミというほうがいい。あらゆるものがカミである。

カミは火(か)水(み)。火であり水であり、木であり土であり、太陽であり風あり山である。すべてがカミともいえる。死んだ人もカミとなる。戦時中は、戦死した瞬間にカミに昇格する。

そうして、神社がある。神札がある。石磐がある。ご神木がある。なんでもいたるところに、カミがおわす。

至る所に社がある。神社がある。そこには、ご祭神がおわす。でもたくさんあって、なんだかわからない。

明治になって、御神名を定めよというお触れがあって、無理に定めたものが多い。行政のほうで、出向いていって、このカミにしろ、というふうに定めた経緯がある。へへぇ。さようでございますかと村人たち。ほんらいは、村の鎮守の神様だったのが、少彦名だとか、天之御中主だとかに。そうしてまた、神社合祀して、いろいろな鎮守のカミをあつめたものもある。

こないだ訪ねてきた人が、神社の奥の祭壇を調べてみたら、じつはなんにもなかった。神札もなかった。石ころもなかった。棟札だけはあったかな、と言っていた。まあ、ほんらいはなにもないんだと思う。

拝んでいる人が、その御祭神がわからない。知ろうともしない。明治神宮に参拝する人は、御祭神が明治天皇だなんて意識はない。なんのカミなのかわからないのに、拝む。ありがたそうだから拝む。それが、日本の神道のありよう。

なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 西行