過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

明治政府が行った神仏分離の政策について、考えている

明治政府が行った神仏分離の政策について、考えている。いい本に出会った。「神々の明治維新」(安丸良夫著 岩波新書)を、繰り返し読んでいる。

維新政府は、徳川幕府を倒して、新たな政権をつくらねばならなかった。人民の意識を制御し統一するための装置が必要だ。

そこで、天皇を神とする観念の体系をつくり、天皇を中心とした一元的な国家を作ろうとした。

そこで、王政復古の大号令神政政治の復活となる。そのときに、おこなったのが「神仏分離令」である。

日本にあっては、神と仏はもともとは一体であった。あるいは融合していた。神であるが、本地は仏とする本地垂迹思想、仏が神として仮にあらわれたとする権現信仰がひろまっていた。が、それを強制的に分離させた。

その際、多くの寺院は破壊された。たとえば、この山里の秋葉山の中核の秋葉寺などは、破壊された。本尊も持って行かれた。伊勢神宮も例外ではない。外宮には、護摩壇があったのだが、壊された。いま国宝の興福寺春日大社と分離させられた。五重塔は焼かれるところだった。

さらには、神仏分離は仏だけではない。多くの神々も否定され押しやられた。天皇とその臣下たちの神々が中軸に据わり、他の神は底辺に。この区域は、この神社にしなさいと神社は合祀された。鎮守の森はつぶされた。そうして祭神はこういう神にしなさいと、外部から適当にもってこられた。このようにして、天皇神道国家神道という新興宗教がつくられたのだった。

さらには、山伏の修験道民間信仰、迷信、習俗などが、これはだめ、これはこうせいと、政府によって強制された。

伝統と歴史のある神仏のありように対して、急進かつ強制的な政策であったのに、日本人気質というのか、大した抵抗運動もなく、しぶしぶ仕方なくというのか、あるいは時流に乗って、進められていったのだった。