過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「神社・寺・教会カフェ」来年で4年目だ。

「神社・寺・教会カフェ」来年で4年目だ。3月に開催する。いま推進していて、キリスト教会と仏教と神道の関わりの関心の温度差を感じる。

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お寺は、「まぁ池谷が言うのだから付き合ってもいいか」というところだし(しかし、それはありがたいこと)。檀家がいて安定していると、檀家を増やそうという意図はない(地方は檀家が固定しているので、他の寺の檀家を奪うことになってややこしい)。

神社も、それほど熱はあるわけではない。さきほど電話した神社は、祭神を説明しろと言われても困るし、祝詞もあげない。そもそも神道に詳しくない。勝手に境内を散策してくれて、もし宮司がいればも話に応じてもいい、という程度。なので、「まあ、では見合わせましょう」ということになる。訪問者を心から喜んでもらう所でないと、企画する意味がないからね。

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一方、教会の場合、「ほんとにありがたい。訪問される方は、できれば礼拝に参加してもらいたい。昼食は無料です。そのあと、牧師と語らいの集いを持ちましょう」と、とても積極的だ。

まあ、ひとことで言うと「いま生きている宗教」と「過去の宗教」というちがいがあるか。これに、もしも、生きている新興宗教が参加したら、もっとヒートアップするかもしれない。

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キリスト教の牧師というのは、「その道」をしかと歩んでいる。世襲とか家業で継いでいるのではなくて、神の啓示体験とか、人生の転機があってその道に歩んだ方が牧師となっている。

世襲や家業で牧師になるというのは、めずらし。支える信徒も数十名という中での運営だから、まさに清貧だ。葬儀やら戒名やら法事やお墓と収入があるわけではない。平日は、理髪師のような仕事を持ってやっている牧師もおられる。

そういう方から見ると、ぼくの「神社・寺・教会カフェ」企画は、それこそ仏さま、観音さま、お不動さん、天照大神、国常命などと、唯一神であるゴッドを並列に「one of them」に置くようなものだ(一般人の感覚は、それだと思うし)。ま、しかし、「その道」に徹している人にとって、抵抗があることだろう。

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信仰を求めている人ではなくて、普通の一般の人に呼びかける。すると、いわば物見遊山で、まあ寄ってみようかと教会に来ることにもなる。まあ、そのよう牧師会でも説明した。しかし、「はじめはみんなそうです。来てくださるだけでもありがたい。なんらのきっかになれば、ありがたいことです」と言ってくださった。

この企画は、いわば「一緒くた」である。入り口はいろいろある。なんでも縁しだい。そもそも、信仰を求めるための企画ではない。地域の寄り合いの場として、伝統継承の場として、活用してもらいたいところがメインではある。そうして、行政の支援する企画でもあるので、政教分離というところから、神経は使う。