過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

坂口安吾の「堕落論」を読んだ

坂口安吾の「堕落論」を読んだ。すこしピックアップしてみた。池谷が勝手に改行。文脈も無視して抽出。安吾、さすがに文章力、すばらしい。青空文庫で読める。

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半年のうちに世相は変った。

「醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ」

若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。

「ももとせの命ねがはじ いつの日か御楯とゆかん 君とちぎりて」

けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう

歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。

この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。

日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。

朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。


戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。

人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。