過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教では、神をどうとらえているのか。

仏教では、神をどうとらえているのか。ざっくりと整理してみた。

仏教では、神は人間界よりも上にある「天界」に住む。神といえども「欲界」に住む。その欲望のレベルによってクラス分けされる。

いっぽう五欲は離れたけれども、存在欲求、あいは存在意識だけ、いる・あるというものもある。こちらは「色界」(しきかい)に住むとされる。色界はいわば存在だけの世界。

これらの神々は、それまで積んできた功徳によって天に生じた。しかし、その功徳を失えば堕落する。六道を輪廻する。天上界は、苦労が少ないので修行ができず、ひたすら功徳を失なうだけ、とされる。

だから、神といえども修行して功徳を積まないと、堕ちていくことになる。「天人五衰」(てんにんごすい)という。かれらも地獄に堕ちることもある。発心して心を浄める修行をしないと、六道を脱することができない。

なので、仏の説法を聞くと、神々は歓喜して仏を守護しようとする。仏道を歩む人を守護しようとする。仏の力に感応して、神が力をあらわすことになる。そうしたとき、神々は諸天善神とされる。

日本の神々、たとえば天照太神八幡神なども、諸天善神である。ヒンドゥーの神々である梵天(ブラーフマン)や帝釈(インドラ)なども諸天善神と位置づけられる。

一歩ふかく見ていくと、神々には「本地」(ほんち)がある。その本地こそが、仏である。基底が仏である。仏という土壌から生じ、あらわれてきた存在。それが神々である。

本体である仏が、衆生のレベルに応じて、すがたをあらわしたともいえる。それが神々である。

これを本地垂迹(ほんちすいじゃく)という。迹とは、いわば水面に写った月のようなものである。水面に映るもの月なんだけれども、月の本体ではない。そしてまた、月の輝きも太陽の反映である。

また、これと似ているが、仏が、衆生のために神や人間としてすがたをあらわす。権現(ごんげん)という。権とは、「かり」の意味。力はあるのだけれども、それは「仮り」のものである。本体である仏の威神力によって、力を発揮するのである。

日本では、この権現信仰がたくさんある。いたるところに、権現がおられる。

※いつもそうだけど、自分の思考の整理のたに書いている。「倶舎論」などの仏教論書をもとにしている。人生の実感からみたらどうか、というとまた別の話。