過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

地下鉄サリン事件のあった日

オウムの備忘録(1)

22年前、地下鉄サリン事件のあった日。麻原に導かれたオウム真理教の信徒が大量殺人を企むという狂気の沙汰であった。オウムは、真正の仏教徒と自負していた。仏教の基本は、「殺すなかれ」であると思うのだが、なぜ暴走したのか。

ひとえに麻原の狂気とみられている。けれども、注意しなければならないのは、仏教といっても、かならずしも生命をたいせつにする教えではないということだ。仏教から、「人を殺す」「殺しても許される」という思想が導き出されることもある。

大乗経典にあっては、「殺」が肯定されるような記述がみられる。たとえば「涅槃経」(ねはんぎょう)には、「正法を護る者は当に刀剣器仗(とうけんきじょう)を執持すべし」と。教えを守るためには、武器を携えてもよい。教えを守るためには、戦って敵を傷つけ、いのちを奪ってもよいということになる。

「成仏できない人間を殺す者は、罪にはならない」という記述もある。過去世にブッダ自身が王であった時、正しい教えを誹謗するバラモンたちの命を奪った。そのおかげで、地獄に堕ちることがなくなったという記述もある。これらは、いずれも「涅槃経」である。

さらには、密教だ。真言宗のお坊さんが、毎朝読んでいる「理趣経」(りしゅきょう)。「一切有情 殺害三界 不堕悪趣」とある。三界の一切の衆生を害しても、悪趣に墜ちることはない、とある(般若理趣の法門を奉じているならば、が前提だが)。

後期密教の『秘密集会タントラ』では「秘密金剛によって一切衆生を殺害すべし。殺されたその者達は阿閦如来仏国土において仏子となるであろう」と説かれている。このあたりが、麻原のポアの思想に影響を与えていると思われる。

日本仏教においてはどうか。

たとえば日蓮などは、国を安んずるためには、正法(法華経)を立てよ。そして正法を否定する邪教を廃せと叫んだ。 「建長寺寿福寺極楽寺、長楽寺等の一切の念仏者禅僧等が寺塔をば焼きはらいて、彼等が頚(くび)をゆひのはまにて切らずば日本国 必ずほろぶべし」(『撰時抄』)と書いている。寺塔を焼き払え、念仏者の首を切れ、というのだ。

このように、仏教といっても、「読み方によっては」けっこう危ない教えが含まれている。「正しい」と思いこむと、正しくない教え、正しくない連中を、いともかんたんに軽視し、憎悪し、つぶしてしまおえという意識が生まれてくる。「正しい」はあぶない。