過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

人に会うと、どうして疲れるのだろう

ひとに会うとやはり疲れる。たくさん会うと、たくさん疲れる。馬や猫や牛に会うのは疲れない。どうしてか。

人に会うと、どうして疲れるのだろう。会うだけだから、体力的なんてたいしてつかわない。でも、ぐったり疲れることがある。

やはり緊張するからだろうか。緊張するとストレスがかかる。筋肉が縮む。気の流れ、血流、内臓の動きも滞る。なので疲れる、と。

こんなこと言って、誤解されたのかもしれない。あの人は、あんな表情してたけど、なにが言いたかったのだろう。嫌な思いをさせたろうか。嫌われたかも。あるいは、軽く見られたかも。……などという思いが湧いてくる。次々と。それで、疲れるのだろうか。

そこにあるのは、「よく思われたい」という心。軽くみられたくない、ちゃんとした人に見られない。できれば、たいしたものだと評価されたい。そんな心があるからだろうか。

言えるのは、自分は所詮はその程度のもの。自分のありようは、そのものそれ自体。なのに、自分以上のものにみてもらいたいと思うから、疲れる。はからい、思惑、計算、そういうことで、自分が自分を疲れさせている。そんな気もする。

それって、自分は、いまの自分はオッケーじゃないというありようなのだ。ほんとうはすごいんだけど、いまはまだ、足りてない。でも、ほんとはすごいんだよ。ウソじゃないよ。そんな姿になっている。その姿を自分が自分で評価していると、採点は低い、ひくい。それでまた、疲れてしまう。そんなことがあるかもしれない。

心おきなく自由に語らいのできる友と会うと疲れない。むしろ疲れがとれる。なので、そういう友がいる。そういうネットワークをもっているのが、しあせの要素のひとつだと思う。