過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

問われるまに語っていると、なにかを説明している自分がいる

仏教について聞かれることが多い。宗教について語ることも多い。あるいは、供養とか死後のことについて語ることも。

あれこれと本を読み、インドを歩き、諸宗派の行をさわりを体験し、自分でもいろいろ気づいたことであれば、語ることはたくさんある。

ただ、問われるまに語っていると、なにかを説明している自分がいる。それは、記憶を整理し、頭で理解したことをわかりやすく伝えようとしている姿だ。

はい、四諦がこうで、八正道とは、十二因縁が。親鸞がこういうことを言っている。道元はこうだ。日蓮は。法華経はこういうこと。原始仏教の実践法はこうで。イスラムがこうでキリスト教はこうで……。と、まあ、いろいろ話はできる。次々と。

自分が好きであり得意な領域なので、そこは話していて楽しいのは間違いない。なるほどと、聞いてくれる人がいるのはうれしい。

だが、うまく伝えられたとしても、そこは所詮は説明者でしかない。エヴァンゲリスト(福音家、伝道者)にも至らない。聞いている人は、なるほどそうかと、理解してくれたとしても、心にすとんと響くわけでもない。

目覚めていない、腑に落ちていないのに、人に対してあれやこれやと語るのは、やはり虚しいことではある。それは、身の丈ではない。自分ではないのだから。わかったつもりになっていてそこに気がつかない。そこは、こわいところ。いろいろ学ぶと、知らずにその世界に陥りやすいともいえるか。

説明者よりも、エヴァンゲリスト(evagelist))よりも、たいせつなのはブッダフッド(buddha hood)。目覚めた人が、ブッダの呼ばれるわけだ。ブッ(目覚めること、はっと気がつくこと。あるがままに)の体験、心こそがたいせつ。……それっても、なれるはずもないんだけれども。

※きょうは、疲れの解消のためにたくさん書いてます。これは、ぼくなりの疲れの解消法。妻と子はいま実家ということもあるし。