過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「南無阿弥陀仏」を分解すると

仏教の源流インド(3)

インド人の挨拶「ナマステー」の「ナマス」は、心から敬うこと。この「ナマス」が、中国において「南無」と音写される。そして、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の「なむ」となったことを書いた。

南無阿弥陀仏」を分解すると、じつはすべてインドの言葉の音写である。「南無」は、ナマスから。「阿弥陀」は、「ア・ミタ」で、はかることのできない時間、いのち、ひかり。「仏」は、ブッダの音写である。

意訳すれば、「無限のいのちとひかりである悟った方を拠りどころとします。心から深く信じたてまつります」というような意味になるだろうか。

「仏」は「如来」とも訳される。「タット・アーガタ」の訳。タットとは、真理。「アーガタ」とは、きた人・かえる人。すなわち、如来とは、「真如」からきた人。あるいは、「真如」にかえる人。

「如」とは、いわば「瞬間瞬間のあるがまま」。ほんらいあるがままの、はからいのない真理から、やってきた人。あるいは、遣わされた人。それが如来であり仏。そういうふうにも、とらえられるだろうか。