過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

対談調の本作りにしてみた

対談調の本作りにしてみた。いま試行錯誤中。こたえるのは、スマナサーラ長老。

───願いや目標をもつことが、一概にすばらしいわけではないんですね。

あれこれと願いを立てて生きていこうとするのは、「いまの自分を受け入れられないことのあらわれ」ということもできるのです。いまの自分を否定しているから、それに耐えられなくなって、なにか大きなすばらしい願いをもとうとすることがあります。
願いをもつことで、自分の暗さや惨めさを正当化しているわけですね。
願いをもてば「自分はがんばっている、前向きに生きている」と思うのです。でも、結局のところ、いまの自分自身の否定から出発しているのですから、なかなか成功しない。自分を否定して、生き生きとしていないひとに、期待することはできませんよ。
また、願いが妄想によるものであったり、欲にかられたり、あるいは怒りの心によるものであったとき、それはうまくいきません。
その願いによって、かえって自分を苦しめることになります。
願いが、手かせ・足かせになり、おもりになってしまうのです。
重りをつけて進もうとすれば、うまくいかないのは当然ですね。それは、とてもつらい進みかたです。
願いをもつことによって、「それを達成しなければ」という思いに縛られてしまうと、人生の探求者、冒険者にはなれないのです。

───そんな大きな願いなど立てる必要はないんですね。

わたしたちは、何か大きな願いを立ててがんばることがすばらしい、と思っていますが、それは錯覚なんですね。目標として大事なのは、「昨日よりは今日、ましな人間になるように」というくらいでいいのです。
お釈迦さまは、「順次に少しずつ、その都度、その都度、磨きなさい」と言われました。「悟ろう」とか、「ひとを救おう」とか、大胆なことを願っても、それは自己満足の空回りになりがちです。
大切なことは、「少しずつ、少しずつ」です。「その都度、その都度」でいいんです。
少しずつ、少しずつ。その都度、その都度です。自分という人格を磨いていこうと努めるのです。
進むのは、常に一歩一歩からです。そうすると、一つひとつの達成感が出てきます。
人生というものは、長くて遠い道のりのように感じるかもしれませんが、しかし、具体的には、目の前にあるんですね。
目の前にある問題を、一つひとつ解決していくしかないわけでしょう。
そういう生き方であれば、難しい事態が生じた場合も混乱に陥ることはありません。かえって「ひとつ挑戦してみよう」ということで、おもしろいんです。うまくいかないことが、かえっておもしろくなってしまうのです。

───私たちの価値観のなかには、歯を食いしばって、苦しんで努力することがすばらしいというものがありますね。

そういう生き方は、「暗闇から光へ行く道」のように思えてしまいます。
そんな生き方よりも、もっと楽々とたんたんと、川が流れるような生き方があるのです。
「暗闇から光へ行く道」ではなくて、「光からさらなる光へ行く道」があるのです。
たとえば、小さな子を見てください。彼らは、自分で何かできたことに、とても喜びますね。シャツのボタンをはめられたとか、電気のスイッチを押せたとか、自分で靴を履けたとか、そんな些細なことに大喜びします。
私たちは、子どものそういう心に学ぶ必要があります。
この一日一日を子どものような無邪気な好奇心で、いろいろなものに出会い、あるいは観察してみるだけでも、とても感動的な暮らしになるのです。