「正しい」と思うと、ますます「正しい」と思う。「ダメだ」と思うと、ますます「ダメだ」と思うようになる。
一度、価値観が傾斜すると、そちらにエネルギーが流れて、ますます補強していく。
「いい」と思うと、それに対応し経験からその事実を確認していく。「いい」と思われることに光を当てて、ピックアップする。すると、「やっぱりいいんだ、正しいんだ」とますます確信を深めていく。
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しかしある時、 これは違うぞと、一つひびが入った時、今度は、そこからダメな経験やデータを次々と引っ張ってくる。 「ああ、やっぱりダメなんだ」というように、逆に確信を強めていく。
自分の価値観というのか、信念体系というようなものは、このようにして補強されていく。
そうなるのは、心が、つねに安定、安心したいからだろうか。
価値観や信念体系が始終ぐらついていたら、不安で落ち着かないからだろうか。自分というものを、つねに維持しておきたいと思うからだろうか。
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信仰というものも、そんなところがありそうだ。
なにかのきっかけで、信ずるということが起き、信仰生活が始まるとする。すると、信じているものに対応した日常の事象が、現れてくる。
そういう目で物事を見るようになる。すると「神はすばらしい」「仏はすばらしい」という風にして生きていくことになる。
で、そのまま確信を持ったまま、ずっと生きていければいい。けれども、 どこかで「何か変だな、やっぱり違うかな」という思いがでてくるものだ。
何かのきっかけでヒビが入ると、 「ああ、やっぱり神はいない」「仏はいない」というようになる。
そうして、今まで理想化したものが反転する。今度は攻撃的になって、いままですばらしいと思うものを、ゴミ箱に捨てる。さらに、こきおろしダメな烙印を押し続けるということにもなる。
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まあ、人間関係にはよくあることで、理想的に見ていた人との関係が破綻すると、途端に「ダメだ」というデータを集めて、ダメというレッテルを張り続けてしまう。田舎暮らしというのも、まあ似たようなことがある。
いま自分が「正しい」とか「絶対だ」と思っていることは、あるときもろに崩れて、正しいが悪にもなり、絶対なるものが低劣なものに転化したりする。そして、その逆も起こるうる。
物事を、あるがままにみるということは難しい。