ある宗教とか信念とかを深く信じていくと、脳が活性化しない。とっても不自由で躍動しないのではないか。なぜか。どうしたらいいか。そのことを考えてみた。
①宗教というものは、つねに「正解」がある。これが正しい、あれが間違っているという価値判断が伴う。それが教義体系となる。煩瑣で膨大なものとなる。スコラ神学や天台教学をみるがいい。
②信仰の道は、すでに「正しい」とされている教義を習得する道となる。「なぜ正しいか」は問われない。正しいということが前提で学びが進む。
③その「正しい」道は、すでに宗祖や開祖によってつくられている。だから、信仰の道に入っていれば、絶対に乗り越えらない。乗り越えたら、異端であり邪義となる。仲間はずれとされる。
④すでに正解があり、正しい道があり、体系がある。それををちゃんと学ぶのが信仰の道と勘違いしてしまう。
⑤すでにきめられた正解のあるものを学ぶのは、ちっとも面白くない。躍動しない。そして頭が悪くなる。
⑥正解なんかわからない。正解があるかもしれないし、ないかもしれない。まったくわからない。それは、自分がよく思考して、いろいろためしてみて、身体実感で得るしかない。
⑦そんな道は、不安であり、あぶない。信仰をつよく持っている人からは、そのように映るだろう。
⑧しかし、正解のない道。なにが正しいのかわからない。答えがないかもしれない、あるかもしれない。そういう探求の道。それこそが脳細胞を活性化する。それこそが楽しい道、躍動する道、人生を自由に踊る道である。
⑨じゃあ、宗教はみんなダメか。そうとも言えるし、そうとも言えない。これこそが絶対だ、他は間違っているという強い思いが安定した心を作るかもしれないが、自縄自縛となる。
⑩これが間違いとか正しいというものはない。遠回りや近道もあるかもしれない。ただ自分は、縁があって、この道を歩んでいる。あらゆる道が真理に至る道である。そんな探求は死ぬまでつづく。