過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

密教は自然破壊の歯止めになりうるのか

密教に対して、聞きたいもうひとつ。「密教は自然破壊の歯止めになりうるのか」。

仏教にあっては、「いのち」を大切にすることが教えの行の基軸である。なので、戒律の筆頭に「不殺生戒」が出てくる。

いのちあるものを殺さないこと。インドにおいては、動物、昆虫くらいまでだと思う。草木はいのちに入れていない。でないと、修行者は飢えて死んでしまう。

さて、日本仏教にあっては、すべてに仏性あり。どんな人間も、仏になることができる。いや動物も、昆虫も。さらには草木も国土も仏になりうる、と説いてきた。密教においても、すべてこれ大日如来のあらわれ、と説いている。

すべてがいのちあるもの、この世界はいのちのいちの交流。私たちは、いのちあるものに生かされ、支えられている。そういうことを説いている。

その考えは、すばらしいと思う。

けれども、言うことは簡単である。立派なことを述べておられる、さすがだ。そうして言うだけでは、なんら自分にはリスクがない。

では、具体的に密教はいまの環境破壊に対して、なにかアピールしているのだろうか。具体的になにか活動しているのだろうか。

……というところになってくると、はてどうなんだろうということになる。

密教はすごいぞ、深いぞ、ありがたいぞ、いのちのおしえだぞ、と高みから言っているだけ。そういうことにならないだろうか。

そのあたりを、密教に対して聞いていきたいのだが。

かつて著名な宗教評論家のHさんに、このことを聞いたことがあった。次のような回答であった。

池谷君、仏教は「指針」でいいんだ。こちらの方向が本来の生き方だよ、という指針を示すだけでいい。磁石の方向を示すだけ。その指針があれば、いかに自分の生き方が外れているのか、いかにこの世のありかたが、外れているのかよく分かるじゃないか、と。そう言われた。

しゃあ、お坊さんは、言うだけでいいんですか。それが役目ですか。生き方としては、暮らしとしてはどうなんですか。
そう聞いた。

Hさんは、お坊さんは社会活動とか、そんなことしなくもいいと思う。お寺をつねに掃除して清潔に保つ、それだけでもすばらしい。そう言われたのであった。

自らが祈る。依頼されて祈る。地域の交流の核になる。縁に従って、相談を受けたら、伝えていく。特別にNGOとか福祉活動とか、なにかしなくても……。とも思ったりする。