過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教の生き方ってなんだ?

仏教の生き方ってなんだというと、ゴチャゴチャと難しい言葉が並べられてよくわからない。苦・無常・無我、四諦、八正道、十二因縁……と。観念論、哲学、知識が専攻してしまいがち。

で、「ダンマパダ」という最古の経典の一つが、わかりやすい。そのなかに、こうある▲「他人の過失を見るな。 他人のしたことと、しなかったことを見るな。 ただ自分のしたことと しなかったことだけを見よ」と▲どんなときでも、なにがあっても、「自分を見ていく」という生き方。これが仏教の教えのエッセンスだと思う。

ぼくなりに思うのは、「自分のしたことと、しなかったこと」というよりも、「自分のしていること」ではないかと思う▲過去や未来のことではない「いまの瞬間」のこと。他の所、別の空間ではなくて「ここ」。つねに「「いま・ここ」の自分のあり方をみていく。それが仏教的な生き方。

しかし、これほど難しいことはない▲心と体はつねに分離している。考え・思考がいつも先行する。心はべつのところにさまようのが好きだ。考えていることと、やっていることがばらばら、それが常だ▲だから、努めて「いま・ここ」に心をつなぎとめておく。──それが仏教の実践だと思う。

じゃあ具体的に、心をつなぎとめるって、どうやって?▲そこが難しい。実践のひとつは、つねに呼吸に立ち戻ること。呼吸に気づいていること。吸う息・吐く息に気づいていること。それが、いまここにある実践の鍵になる▲坐禅などはそうした実践のひとつだ。しかし、日常生活は、座ってばかりもいられない。あれこれ動いている▲そうしたときは、「体の動き」に気がついていること。歩く、坐る、立つ、もつ、引く、もちあげる……。ひとつひとつの単純な動作に気がついていること。動作に意識を向けること、あるいは感覚的に味わうこと。

それでも、気がついているってむつかしいよね? たしかに、むつかしい。すぐに頭が動き出して、考えが走りだす。ぼくなんか、いつもそうだ▲で、いま心がけていること。それは、ひとつひとつの動作を「ことばで確認していく」ことだ。「ことば」で。頭のなかで「もつ」「押す」「引く」「立つ」などと言葉にしていく。

まあしかし、とても難しい。心はいまここのことよりも、未来と過去のこと、ここじゃなくてちがうところのことを夢想したがる。その世界に遊びたがる▲でも、気がついたとき、つねにいまここの動作。あるいは、心の動き。感情の動き。それを言葉にしていく▲言葉にするということで、確認していくともいえる▲そのことの絶え間ない実践で、心はどうなっていくか。……そこをみている。