過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

原始仏典を「楽しい」というキーワードで検索してみた

ブッダの教えは、「苦」「無常」「無我」。出世間の教えであり、執着こそ苦の原因として、それを外すことを教える。そして、もろもろは過ぎていくと無常を説く。
そうすると、その教えは静寂だが、明るくはない。けっして楽しそうなイメージではない。
ということで、原始仏典の最古層の、ダンマ・パダやスッタ・ニパータを「楽しい」というキーワードで検索してみた。
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〈ダンマパダより〉
98  村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。
99  人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。
194  もろもろのみ仏の現れたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。
197  怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮していこう。
198  悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。
199  貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、貪らないで暮そう。
200  われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう。
206  もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207  愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。──仇敵とともに住むように。心ある人と共に住むのは楽しい。──親族に出会うように。
331  事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終わるときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。
332  世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。
333  老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
〈スッタ・ニパータより〉
1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。
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しかし、こうした覚悟も必要である。
52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
ともあれ、「いまここ」を楽しく生きる、あるいは愉快に生きる教えが仏教、というとらえかたもできる。だって、自分はいま・ここに生きているんだから、楽しくなくちゃなあ……。
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では、どのようにしたら、そうなるのか。それが難しい。別の機会に実践論から見てみたい。
ちなみに、大乗仏教になると、常楽我浄、大安楽の教え、歓喜と随喜の教え、煩悩即菩提、生死即涅槃、方便究竟と説かれていくのだが、それもまた別の機会に。