過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

永平寺の宮崎奕保老師

厳しい禅の修行道場で知られる永平寺のトップを務められた宮崎奕保老師。100歳を過ぎても現役で、若い僧と修行を続けられた。かつてテレビで「永平寺 104歳」を観たが、自然体できりっとスジの通った迫力があった。その悠々としたおはなしがとても魅力的だった。──立松和平さんがテレビの取材でインタビューしたときのお話から。

何も考えない、妄想せんことや。いわゆる前後裁断や。〈その時その時、一息一息〉しかないんだ。何か考えたらもうそれは余分や。人間は、名誉とか地位とか見栄とか我慢(わがまま)とか、そんなもんでいっぱいだ。欲は克服するすべを覚えんといかん。それが坐禅だ。〈息と一つになる〉欲の起こるすきがない。

坐禅ということは、〈まっすぐ〉ということや。まっすぐというのは、背骨をまっすぐ、首筋をまっすぐ。右にも傾かない、左にも傾かない。まっすぐということは 正直ということや。身心は一如(一つ)やから、体をまっすぐにしたら心もまっすぐになっとる。人間はわがままが自由やと思っておる。ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)でなければならない。

道元禅師様の坐禅は、すべてがみな禅だ。禅というたら、何かことさらにあるように思っておる。そうではなくて、〈そのものと一つになっていくこと〉が禅だ。歩いたら歩いた禅、しゃべったらしゃべったで、しゃべることが禅だ。

スリッパを脱ぐのも 坐禅の姿や。スリッパをそろえるのが当たり前のこっちゃ。例えばスリッパがいが(歪)んでおったらほうっておけないんだ。スリッパがいがんでおるということは、自分がいがんでおるんだ。自分がいがんでおるから、いがんだやつが直せないんだよ。だから、物を置いても、ちぐはぐに置くのとまっすぐに置くのとすべて心が表れておるんだから、心がまっすぐであったら、すべての物を まっすぐにする必要がある。

修行をしておるんじゃなくて、〈当たり前のこと〉をやっておるんや。それよりやることないんだ。

正岡子規の「病牀六尺」という本には「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っておった。ところが それは間違いやった。平気で生きておることが悟りやった」と。分かるか。平気で生きておることは難しい。死ぬときが来たら死んだらええんやし、平気で生きておれるときは、平気で生きておったらいいのや。

※老師は6年前に106歳で逝去された。